「神の備えし時」

マルコによる福音書11章1節~11節
末竹十大牧師
「あなたがたがそこへ入るとすぐ、あなたがたは見つける、誰も座ったことのない子ロバがつながれているのを」とイエスは言う。「すぐ」と言うのだ。遣わされた弟子たちは苦労して見つける必要はない、すぐ見つけるのだから。つまり、彼らが入ると同時にそこに子ロバがいるのだ。それは、彼らのために備えられた子ロバ、イエスのために備えられた子ロバであるということなのだ。

「すぐ」という言葉は、ギリシャ語でエウテュスという副詞である。この言葉は、「まっすぐ」という意味の言葉と同根であり、一直線という言葉とも同根である。村に入ると、目の前にまっすぐに見たところに子ロバがいるのである。それは、神が備えしもの。それを見つけるのは、「すぐ」であり、神が備えし時に見つけるのである。

イエスは、弟子たちを目の前の村へと派遣する。子ロバを連れてくるために。目の前にある村に派遣する。そして、そこに入ると「すぐに」見つける子ロバを連れてこいと言われる。これは、非常に重要なことである。

我々は、自分が見るものを認識し、これはどういうものであるかと理解するために、判断する。この判断が入る前には、ただそこにある存在を見ているだけである。ありのままに見ているだけである。しかし、判断が入り込んだとき、我々は「これで良いのか」と考えたり、「これには何の意味があるのか」と考えたりする。そうして、ありのままのそのものを受け取ることができなくなるのである。そこにあるのは、神が備えしもの、神が備えし時に置かれたものなのに。こうして、我々は直感を曇らせてしまう、愚かな考え、愚考によって。

神は、相応しいときに、相応しいものをそこに置いておられるというのに、我々は自分が相応しいか否かを判断しなければならないと考える。そうして、神の備えしもの、神の備えし時を蔑ろにしてしまうのである。そうして、神が備えたときが、曇って、見えなくなるのである。

弟子たちは、村に入ると「すぐに」見つけるものを連れてくるだけで良いのだ。すぐに見つけるということは、神がその時を定めて、そこに置いておられるからである。我々が、神が置かれしものを判断し、自分にとって都合の良いものだけを使おうとする。そうして、神が良しとされたものを排除してしまうのである。

イエスは、弟子たちがそのような自分の判断によって見つけることがないようにと、入ったら「すぐに」見つける子ロバを解いて、連れてきなさいと言われるのだ。イエスがそう言わなければ、弟子たちは探し回るだろう。そうして、彼らが相応しいと思うものにイエスを座らせるのである。そうすると、神が備えし時は失われ、神が備えしものは、排除されるのである。これが、我々人間の愚かさである。

我々は、目の前にあるものを判断しようとする。そこに罪がある。直感を曇らせてしまう我々の愚かな判断がそこから生じるのである。我々は、「すぐに」自分を発動して、「すぐに」神の備えしものを排除する。神が備えし時を排除してしまうのである。そうして、我々は自分を神の時から排除しているのでもある。

直感は非常に大切である。いや、目の前に現れた存在は大切な存在なのである。神がわたしに出合わせる存在なのだから。その存在を、我々が自分の都合に合わせて、判断し、「これはいらない」とか「これはいる」とか言っているのだ。神が、わたしのために備えしもの、備えし時を蔑ろにして、賢いのだと思い込んでいる。

確かに、自分に都合の良いものだけを集めれば、わたしには都合の良いことだけが起こるように思える。だから、我々は自分の判断、自分の都合を優先する。そのとき、神の判断、神の備えは無視されているということを忘れているのだ。我々が判断することが絶対であるかのように、我々は自分の判断を優先するのである、神の判断を無視して。ここに、我々人間の罪がある。イエスを喜び迎えない罪がある。

しかし、今日の群衆はイエスを喜び迎える。自分たちの前に現れた子ロバに座ったイエスを喜び迎える。ここにも「すぐ」があるのだ。彼らはイエスに出合い、イエスをあるがままに受け入れ、喜び迎える。これは、彼らが「すぐに」反応したが故である。しかし、この後彼らが自分の判断を優先するようになると、イエスを否むことにもなるのだ。

ここで喜び迎えた人間が、否む人間になる。イエスを十字架に付ける人間になる。これも、人間の生の姿である。もちろん、マルコは「群衆」を良きものとして語っていると言われる。しかし、群衆は自分の判断を差し挟むとき、「すぐに」方向を転換するのである。自分たちにとって都合が悪くなれば、当然反旗を翻す。それが、人間なのである。

このような人間をイエスはただあるがままに受け入れる。喜び迎える群衆を受け入れる。そのとき、彼ら群衆はあるがままに生きていたのだから。それでいいのだから。そうして、イエスが受け入れた群衆は、「すぐに」自分の考えに、自分の都合に転換する存在でもあることを知っていて、受け入れるのだ、イエスは。

このお方が来る。「すぐに」と言われたお方が来る。神の備えし時の中で、来る。イエスは、十字架をも「すぐに」受け入れるのである。神が備えしもの、神が備えし時を「すぐに」受け入れるのである。そこにこそ、イエスが神のうちに生きている姿があるのだ。ゲッセマネにおいても、杯を過ぎ去らせ給えと祈りつつ、「すぐに」神の意志に身を委ねるイエス。このお方は、「すぐに」という神の時の中で生きておられる。それは、神が備えし時なのだと生きておられる。それゆえに、十字架に架けられても、神が備えし時の中で架けられるのであれば、神が支配している中で、十字架に架かるのであることを受け入れる。イエスこそ、神の備えし時の中で生きておられる方である。

我々は、神の備えし時を無視し、自分の備えし時を優先する。神の備えしものを無視し、自分の都合で備えしものを優先する。自分に都合の良いものばかりを集めて、自分に都合のよい事実が生じると思っている。しかし、そうはならないのだ。すべては、神が備えし時とものであるから。わたしの都合どおりには運ばないのである。そして、我々は、自分で自分を神の備えし時とものから排除してしまうのである。ついには、「ああ、神は見放し給うた」というところに至ってしまう。自分の都合ばかりを考える時には、与えられたものを排除するがゆえに、神の意志を排除するが故に、そうなってしまう。当然である。せっかく神が備え給うたものを排除すれば、神ご自身が排除されているのだから。自分から神を見放したということになるのだ。神があなたを見放したのではない。あなたが神を見放したのだ。それが、十字架の出来事なのである。

しかし、神は人間から見放されてもなお、人間を見放し給わない。イエスというお方を通して、神は備えし時を用い、備えしものを用い給う。それゆえに、十字架は人間が神を拒否したものでありながら、神の備えしものはやはり用いられ、救いの器とされるのである。十字架が救いの器であるのは、神が備えし時の中においてなのである。ここに我々の救いが出現する。

待降節の間、我々は自分が判断するのではなく、ただ神が備えしものを受け入れる心の備えをしよう。イエスは、我々が判断するところには生まれ給わない。我々が備えし時には生まれ給わない。我々が備えしものには生まれ給わない。神が備えし時に、神が備えしものに、神が備えしところに、生まれ給うのだ。

待降節を過ごす中で、神の備えし時を受け入れることができるように、備えていこう。「すぐに」出合わされるものを受け入れて、神の備えし時に従って、生きていこう。すべての時は、神の備えが胚胎する時なのだから。

祈ります。

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