「場所の発見」

ルカによる福音書4章16節~20節

 「彼は発見した、こう書かれてある場所を。」と記されている。新共同訳は「次のように書いてある個所が目に留まった。」と訳している。確かに、発見することは、あるものをあると認識することであるから、「ある個所が目に留まる」と言えるであろう。しかし、それでは偶然目に入ったということになる。果たして、そうなのだろうか。そこにあるのに今まで気がつかず、読み過ごしていた個所が目に飛び込んできたというのは、偶然なのか、必然なのか。発見は、必然である。たまたま目に留まったということではない。発見は、今まで見えなかったものが見えるようになることである。そうであれば、目に留まるということではなく、見出すことである。イエスは聖書の言葉を見出したのだ。それを、「場所を発見した」と語っているのである。イエスご自身が生きる場所を見出したということである。それが、イザヤ書61章の言葉であった。イエスは、ご自身が生きるべき場所を、イザヤの言葉の中に発見したのだ。

イエスは、「安息日の日々における彼の慣習に従い、シナゴーグへと入った。」のである。安息日の日々には、イエスはいつもシナゴーグに入った。礼拝は慣習化されていくものである。慣習化されるということは、行きたくなくても行くのである。礼拝は、そのような慣習化があってこそ、我々人間の恣意に左右されず、神の言を聞くことになるのである。行きたいときだけ行くとか、行けるときに行くというのは、礼拝に臨む姿勢ではない。我々が礼拝を決めるのではなく、神の定めによって、礼拝が守られるのである。この慣習化の中で、神の言の発見が生じるのである。「目に留まった」と訳すと、そのときの自分の恣意によって、気まぐれに開いた聖書の個所が偶然目に留まったというように聞こえる。そうではないのだ。自分の恣意によってではなく、慣習に従って行う中に、場所の発見が生じるのである。もちろん、慣習を他者に強要するときは別である。慣習は自らに課すべきもの。自らが神の定めに従うために課すべきもの。神の言に従って、自らが担うべきものなのである。

慣習に従って入ったシナゴーグで、「彼は立ち上がった、読むために」と言われている。「読む」という言葉は、アナギノースコーという言葉で、分解すれば、アナ「新たに」と、ギノースコー「認識する」となる。つまり、再認識である。今まで知っていたが新たに認識し直すことが、「読む」という言葉なのである。慣習に従って行ってきた礼拝の中で、イエスはいつも読む役割を担っていたのかどうかは分からない。しかし、イエスは毎週慣習に従って、読んでいたのだ、みことばを。「読む」という行為が再認識を示しているのであれば、イエスは今までも再認識していたのではないのか。そうである。しかし、この日、イエスは新たに「読む」という行為を通して、再認識したのである。それゆえに、場所の発見が語られている。今まで読んでいたイザヤ書の言葉が、新たに認識された。新たな意味を持って認識された。自らの場所として認識された。自らの使命として認識された。イエスは、神の言のうちに自らの場所を発見したのだ。

場所の無い生を受けたイエスが、神の言のうちに自らの場所を発見した。神の言は聞く者を生かす言葉である。神の言がその人の魂に入り行くとき、魂は神の言と一体となり、喜び生きるようになる。それが場所の発見である。その場所は、この世ではさまざまなところに現れる。神の言のうちに場所を見出した存在は、この世の中で如何なるところであろうと、如何なるときであろうと、神の場所を生きることができる。この世における地位や境遇が変わらなくとも、今までとは違う世界を生きることができる。再認識された世界を生きることができる。それが、クリスマスの夜、羊飼いたちに起こったことだったのだ。

我々は、いつも同じことの繰り返しだと思っている。毎年、クリスマスが来て、新年が来て、春が来て、時は繰り返していくと。いつも同じなのだ、どうせ自分は変わり得ないとあきらめに陥るのだ。ところが、今日イエスが聖書の言葉に場所を発見したように、我々も同じことの繰り返しに思える日常において、場所を発見するのだ。神の言がわたしの魂を生かすという場所を発見するのだ。そのとき、我々は新たな世界を認識し、新たな世界を生き始めるのだ。同じ言葉を読んでいると思っていた聖書の言葉が、今日新たに聞こえてくる。お前の場所があるのだと聞こえてくる。わたしの魂が息を吹き返す。新たに生き始める魂が、神の言を喜ぶ。イエスは、今日そのような生を生き始めたのである。

我々に場所を発見させるために、イエスは場所の無い生を生きざるを得ない人々のところへと入って行かれた。貧しい人、捕らわれ人、目の見えない人、圧迫されている人のところへと入って行かれた。彼らにも、場所があるのだと伝えるために、入って行かれた。場所はどこにでもある。ただ、あなたが見出す目を開かれさえすれば。そのあなたの目を開くのが神の言である。神の言があなたを新たに認識させる。あなたの置かれている世界を、あなたの場所として認識させる。神の言があなたの場所となる。そのとき、あなたは如何なるところであろうとも生きていく力を得るのだ。

我々に開かれている新しい年。これからの一年は、神の言があなたの魂を生かす一年である。今年の主題聖句にある如く、「聞け、そして、あなたの魂が生きる」という一年を過ごしていくのだ。神の言があなたの一年を導く。あなたの日々を導く。あなたのひとときひとときを導く。新しい一年は、新たに認識されたあなたの場所なのだ。いつもと同じことの繰り返しなのではない。新たなことが始まる年なのだ。新たな出来事が起こる年なのだ。あなたが新たに生き始める年なのだ。

我々が後ろに残してきた年は、過ぎ去った。過ぎ去ったものの中には、苦しみも、悲しみも、あきらめもある。しかし、それらは過ぎ去った。今、我々の前には新しい一年がある。再認識されたあなたの道がある。再認識していくあなたの人生がある。新たに発見される場所がある。今年も、神の言が語られる。あなたが聞き、あなたの魂が生かされるようにと、神の言が語られる。神があなたの魂に語りかける。神の言が命を与える。あなたは、神の言と一体となり、神の意志に従って生きて行く。そのような一年が、我々が臨む一年なのだ。

イエスが神の言の中に自らの場所を発見したように、我々もまた神の言によって、自らの場所を新たに生きていこう。あなたがなすべきことがある。あなたが生きるべきことがある。あなたが発見すべき場所がある。

貧しさの中にあっても、福音によって生きる。捕らわれていても解放される。見えなかったものが見えるようになる。抑圧されていたところから自由になる。イエスがそのために、あなたのもとに来たり給う。みことばのうちに来たり給う。みことばのうちに自らの場所を発見したイエスが来たり給う。この一年は、このお方をお迎えする一年である。新たに開かれていく年を、喜びをもって生きていこう。神の言があなたの魂を生かすように、生きていこう。キリストの体と血に与って、キリストの力によって、生きていこう。あなたのために、ご自身の命を与えてくださるお方によって、生きていこう。キリストの言葉と一つになって生きていこう。

十字架こそが、神の力。十字架の言が神の力。救われる者にとって、神の力。力強い御手に支えられながら、共に生きて行こう。自分の場所を発見しながら。

祈ります。

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