「かき回す神」

マタイによる福音書2章1節~12節

「王ヘロデはかき回された。そして、エルサレムすべての者が、彼と共に。」と言われている。占星術の学者たちの来訪の理由を聞いて、王ヘロデの心はかき回された。困惑し、どう受け止めたら良いのか分からなくなった。彼は、信じてもいないのに、聖書を調べさせ、幼子誕生の地を特定させる。彼は、占星術の学者たちを、秘かに呼び、ベツレヘムに送り出す。幼子が見つかったなら、居場所を教えるようにと。

学者たちが、ヘロデのところに戻らなかったために、ヘロデはベツレヘム近郊の二歳以下の男児を殺害する。ヘロデは、かき回され、自分の周りをかき回し、混乱に陥れてしまう。彼自身がかき回されているからである。王ヘロデをかき回したのはひとりの幼子。小さな小さな存在が、大きな王ヘロデをかき回している。いや、幼子は幼子として誕生しただけである。彼はヘロデをかき回そうとして生まれたのではない。神が生まれさせたので、生まれたのである。神も、ヘロデをかき回そうとしたのではない。ご自身の意志に従って、幼子を生まれさせたのである。学者たちが、ベツレヘムへと向かったのも、ただ神の意志に従ってである。ヘロデとエルサレムのすべて以外は、神の意志に従っているだけである。神の意志に従わない者たちがかき回されている。

我々も、神の意志に従うときには、かき回されない。ただ、神の意志がなっていくだけである。神の意志が我々をかき回すのではない。神はまっすぐにことを行う。約束を履行する。ただそれだけなのだ。それにも関わらず、我々がかき回されると思うのは、履行される神の約束が、わたしにとって意味があるか、利益になるかを考えるからである。不利益を被りたくない、無意味なことは受け入れたくない。それゆえに、我々はかき回される。それは、自らの思いにかき回されているのである。かき回す神などいないのだ。神はただご自身の意志を遂行するだけである。

占星術の学者たちは、東の国からエルサレムへやって来た。そして、ベツレヘムを示された。星に導かれて、ただ幼子を礼拝するために来た。彼らが目指したのは、幼子だけだった。彼らの思惑はなかった。神に示された幼子、誕生した幼子を礼拝するために来た。そうしたからと言って、何かが彼らに与えられるというわけではない。彼らが特別の地位に就くわけでもない。彼らはただ礼拝するために来たのだ。この単純さ、純粋さ、単一性に生きる存在には、神はまっすぐである。しかし、自らの目的を自らに置く者には、神はかき回す神なのである。学者たちは、自らの目的を神の意志に置いた。ヘロデは自らの目的を自らの地位を守る自らの意志に置いた。それゆえに、神がかき回すかのように、かき回されてしまう。

あなたが、ヘロデと同じようにかき回されているならば、自らの意志を中心にしている。学者たちのように、神の意志を中心にしているならば、かき回されることなく、正しく導かれる。別の道を通れと。そうして、悪を回避することも可能となるのである。

神はまっすぐである。我々人間は曲がっている。かき回しているのは自分自身なのに、神がかき回すと思い、人がかき回すと思う。結局、自分自身でかき回されているだけなのだ。そのような人間の思いを超えて、神の意志は貫徹される。これが神の業である。

新しい年も、我々はかき回されるかも知れない。我々自身の意志によって、かき回されるかも知れない。我々自身の意志は悪の意志である。悪魔が我々に囁くのだ。これでは、お前の地位はどうなる。これでは、お前はお仕舞いだ。これでは、お前の将来はない。こうして、我々は我々自身の悪によって、自ら混乱に陥り、周りを混乱に陥れてしまう。ヘロデがかき回されたことで、エルサレムすべてがかき回されたように。かき回される人間は、周りをかき回す。自らは正しいことをしていると思い込み、かき回す。こうして、世界は混乱に陥ってしまう。

このような我々自身が、神の意志に従うにはどうしたら良いのか。神の意志が分かるためには、どうしたら良いのか。占星術の学者たちのように、自分のためではなく、ただ礼拝するために生きることである。礼拝する生こそ、かき回されず、まっすぐに生きることができる生である。

週毎の礼拝において、我々は曲がっていた自分自身を、みことばによって指摘される。みことばによって自らの罪の現実を教えられる。みことばによって自らのうちに働く悪を見せられる。このみことばの前にひれ伏すとき、我々はまっすぐに神の意志に従って歩み出すのだ。それが、我々の計画とは違う道であろうとも、その道を歩み出すのだ。内なる悪を回避するために。

これが今日、我々が聞かなければならない言葉である。これが今日、我々に与えられている福音である。我々が罪を住まわせ、悪に支配されていることを指摘するみことばこそ福音である。福音によって我々はまっすぐな道を見出す。神へ向かう道を見出す。神の意志に従う道を見出す。ただ、幼子の前にひれ伏すことだけが、福音という真理を我々に与えるのだ。幼子がインマヌエル「共にいます神」だからである。

このお方の前に、ひれ伏すために、我々は集められている。このお方が我らと共にいますために、集められている。インマヌエルを生きるために、集められている。我々は、インマヌエルの民なのだ。インマヌエルのうちに生きているのだ。ただ、神に向かって生きているのだ。この端的な事実を生きることへと、幼子は我々を招いている。

この世界は、常にかき回されている。我々もかき回されている。かき回されないのは、幼子のみ。母マリアと共におられる幼子のみ。マリアが幼子と共にいるのではない。幼子がマリアと共にいるのだ。今日の出来事は、幼子を中心として回っている。かき回されるヘロデやエルサレムすべても、占星術の学者たちも、マリアも。その中心が分からない者は、かき回され、中心に向かう者はかき回されない。ただ、それだけなのだ。

我々が幼子を中心として生きるならば、かき回されることはない。世界が如何に混乱しようとも、かき回されることはない。世界が終わろうとも、かき回されることはない。かき回されないことこそが、救いそのものである。周りが混乱してしまうときも、ただ幼子を見つめよう。世界がどうなってしまうかと思うときも、ただ幼子を見つめよう。幼子は、共にいます神。世界が混乱しても、幼子は共にいます神。我々が右往左往しても、幼子は共にいます神。インマヌエルは、如何なる存在とも共にいます神。あなたが、幼子に目を転じさえすれば見えてくる。自分自身がかき回していたことが。自分が混乱を創り出していたことが。自分が悪を広げていたことが。

あなたが如何に悪であろうとも、神は善を行い給う。善のみを行い給う。善を遂行し、悪を駆逐し給う。インマヌエルとは、揺るぎなく共にいます神なのだから。インマヌエルとはかき回す神ではない。インマヌエルは平和の君なのだ。このお方を見上げることが、我々がかき回されないことなのだ。足下ばかりを見つめていると混乱に陥る。天を仰ぎ、星を見上げ、自らの小ささを認めるとき、我々は平和を得る。大いなるお方が、この小さき存在に目を留め、愛し、支配してくださっている。共にいます神が、我々を導いている。永遠の御国へと導いている。

変わりなくいます幼子が、自らの死をもって、十字架に救いを確立してくださった。ベツレヘムの幼子たちの痛みを負って、十字架の救いを確立してくださった。混乱した世界に翻弄される人間を救うために、十字架に死んでくださった。変わりなくいます幼子の体と血に与り、我々もまた変わりなく神に仕えていこう。新しい年もインマヌエルの年。我らのために共にい給う神が生きてくださる。神の意志に従って、あることをあるように、喜び生きる我らでありますように。「聞き従って、魂に命を得よ」とのみことばを共に生きて行こう。神は、あなたの魂が生きるようにと配慮していてくださる。

祈ります。

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