「降下する意志」

マルコによる福音書1章9節~11節

 「水から上がってすぐに、彼は見た、天の裂開を、そして、鳩のような霊の降下を。」と言われている。天の裂開と霊の降下をイエスは見たのである。イエスの場合の「見る」という出来事は、この世的視覚ではなく、霊的視覚である。「彼は見た」と言われているからである。霊的視覚は、神の視覚である。神の視覚は、現象としての視覚ではなく、現象化されない視覚である。この世的視覚には認知できないものである。そのような視覚の開けをイエスは経験したのである。ということは、現象ではない視覚的認知であるがゆえに、神の意志の認知であると言える。従って、降下する意志をイエスは認知したのである。降下する意志とは、いったい何か。

神の意志が降下する。鳩のような霊として降下する。降下する意志が鳩のような霊であるならば、降下する意志は平和の意志である。イエスは、降下する意志に神の平和を見たのである。この場合の認知は、霊的認知である。イエスは、霊的認知において、神の意志を受けたのである。受けた意志が、降下する意志であるのだから、イエスが受けたものは降下という意志なのである。それゆえに、イエスは常に降下するように生きるのである。この世の最底辺に降下していくことがイエスの生き方となったのである。

イエスは降下する神の意志を自らに受けたが、その意志は人間へと降下する意志なのである。それゆえにイエスは、この世的最底辺に降下していくのである。罪人や病人という存在へと降下していく神の意志を受けて、イエスは降下する。イエスの生涯は、この世の最底辺である十字架への降下である。イエスは最後の死に至るまで、降下し続けて行くのである。それが神の意志であると生きるのである。

神の意志は降下する。しかし、神が降下するとはどういうことであろうか。何故に、神は降下するのか。人間が救いがたいからである。人間が最底辺に生きているからである。最底辺に生きる人間へと降下する神の意志は、最底辺を至高の場所とするのである。何故なら、最底辺が神の臨在の場所となるからである。すなわち、神がおられるところが至高の場所なのである。この最底辺であって、至高の場所であるところが、十字架なのである。それゆえに、イエスの洗礼は、最底辺であることで人間と同じになる。しかし、至高であることによって神である。神にして人であるとはそのような事態なのだ。

神は至高である。至高である神が最低であるところに降下する。それが神の意志である。降下する意志を受けて、降下していくイエス。このお方において、我々は最底辺を至高の場所として認識するのである。この世においては最底辺。神においては至高。これが十字架であり、信仰である。イエスの死に与る我々の洗礼が、最底辺に降下することであるならば、イエスの復活に与る洗礼が、至高に生きることになる。洗礼において、我々はイエスの降下する意志と同時に、イエスの至高性を共有するのである。そのとき、我々は義人にして罪人であることを生きる存在とされるのである。

我々は最底辺においては、罪人である。しかし、至高性においては、義人である。義人にして罪人というルターの定式は、イエス・キリストの洗礼において生きられている。このイエスの洗礼がなかったならば、我々の洗礼は単なる清めでしかなかったであろう。イエス・キリストの復活との同形化は生じなかったであろう。イエスが洗礼において生きたのは、その生涯である。それゆえに、マルコを含む福音書記者たちは福音の始まりにおいて、イエスの洗礼を記すのである。イエスの洗礼がなければ、我々の洗礼はない。いや、洗礼はあっても、その意味は清めでしかないのだ。イエスが洗礼を受けたことにおいて、洗礼は再生の出来事として機能するのである。こうして、使徒パウロが言う「キリストの死への沈め」と「キリストの復活との同形化」が生じるのである。

イエスの洗礼は、我々人間が起こす十字架を志向している。十字架に向かって、イエスは洗礼を受けたのである。十字架への沈めは、降下する意志に基づいているのだ。それゆえに、最底辺への沈めが我々の洗礼なのである。我々は、洗礼において、最底辺に置かれ、至高の場所に置かれる。決して一致し得ないものが、洗礼においてひとつとなる。これが我々の洗礼である。このような洗礼を我々に与え給うたのは、イエスの洗礼である。それゆえに、イエスは声を聴くのだ。「あなたは、わたしの子、わたしが愛する。わたしは喜んだ、あなたのうちで。」という声をイエスは聴くのだ。

天の声を通して、神に受け入れられたことを生きるイエスである。イエスの生涯が降下する意志であることを承認したのは神である。神の意志が、イエスの上に降下したがゆえに、イエスは降下しつつ生きるのである。この降下が、我々の洗礼においても生じるのである。従って、我々洗礼を受けた者は、イエスが受けたように、降下する意志を受け、生きるのである。そうでなければ、洗礼という儀式を受けても、洗礼の意味を生きることはできないのである。我々は、洗礼において、神の意志を受け取るのである。受け取ったように、生きるのである。生きることにおいて、降下する意志に従う。こうして、洗礼を受けた者は、イエスと共に降下するべく生きるのである。

使徒パウロが言う如く、イエスと共に死に、イエスと共に生きるという出来事は、すでに洗礼において実現しているのである。この実現している洗礼を、我々は生きていくのである。洗礼を受けても、降下する意志を生きていないならば、我々は単なる儀式としてしか洗礼を受け取っていない。降下するという生き方において、洗礼は生きている。この世の最底辺へと降下していくのは、洗礼において受け取った神の意志に従うことなのである。そのとき、我々は真実に洗礼を受けたと言えるのである。

我々は、イエスが聴いた天の声を聴くであろう。洗礼において、聴くであろう。洗礼後の人生において聴くであろう。あなたのうちで神が喜ぶという出来事をあなたは生きるのだ。あなたのうちで喜ぶ神は、あなたを生かし、用いる神である。あなたのうちで働く神である。あなたのうちに生きているイエスである。それゆえに、使徒パウロが言う如く、「生きているのはもはやわたしではなく、キリストである。」と言い得るのである。このようになる者として、我々をご自身の意志のうちに受け入れてくださるのは神なのである。

受け入れられることにおいて、我々は神のものとして生き始める。生き始めることにおいて、我々は神のもの、聖なる者、キリストのうちに生きる者とされる。受け入れられた者が、受け入れる者となるという図式が成立する。こうして、受け入れられた恵みが働き、我々は神の意志に従って生きていくのである。

あなた自身が受け入れたくないものを神が受け入れる。あなたが見ないでおきたいものを神が見ている。我々が見ているものは、この世の現象的出来事である。しかし、信仰において、霊的に見ているのは、神の力である。十字架に至る神の力である。こうして、我々は洗礼において、神の力に包まれる。

今日、共にいただく聖餐は、十字架に至るキリストの降下する意志を受け取ることなのである。パウロが言うように、聖餐においてイエスの死を宣べ伝えるということは、降下する神の意志を我々が受け取ることなのである。従って、聖餐において、我々は降下する力を与えられると言えるのである。

我々は、どこまで行っても、罪人である。しかし、復活に与る者としては、義人である。罪を認める人間は義人である。この相矛盾した存在が救われる人間なのである。義人と罪人を同時に生きる存在なのである。我々は、イエスの体と血によって、義人でありつつ罪人であることを生きる。イエスが十字架において決定してくださったのは、この義人性と罪人性を両立させる神の意志なのである。このようになる者として、招かれていることを感謝しよう。あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのだから。

祈ります。

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