「福音の中で」

マルコによる福音書1章14節~20節

 「カイロスが満たされてしまっている。そして、神の国が近くに来てしまっている。あなたがたは悔い改めよ、そしてあなたがたは信ぜよ、福音の中で。」とイエスは言う。宣教の始まりにおいて、イエスは「福音の中で」と言う。福音を信じることではあるが、福音の中で信じるのである。福音の中に包まれてこそ、悔い改めも起こるのである。我々は、どうしても悔い改めと信じることとは順番であるかのように考えてしまう。悔い改めて、信じるのだと。しかし、悔い改めているということは信じているのである。福音の中で、信仰に関わるすべてが起こっているのである。

我々は、どこまでも順番を考え、こうしたらこうなる。こうしなければ、できないと考えてしまうものである。しかし、福音の中にはすべてが充填されているのだ。神の力が充填されているのだ。そうでなければ、福音ではない。ここまで来たら、福音を上げようなどと、神はおっしゃらないのだ。福音がすべてを持っているのだから、福音の中にいることが大事なことなのである。

弟子たちが、イエスの召しに応えるのも、福音の中なのである。福音を信じると言うが、何を信じているのか、良くは分かっていない弟子たちなのだ。それなのに、彼らは網を捨て、父を残して、イエスに従うのである。彼らがすでにイエスという福音の中に包まれているからである。

我々も、信じていると言いながら、何を信じていますかと問われて、明確に答えることができるだろうか。イエスの十字架の赦しを信じています。十字架でわたしの罪が贖われたからです。罪赦されたことを福音だと思っている。しかし、我々はどのように罪赦されたのかを把握しないままに、そこに神の福音が啓示されているのを知るのである。それは、明確に言葉にできない何事かを感じているからである。福音に包まれているからである。イエスが来られて、我々を福音の中に入れ給うたからである。そうでなければ、我々はこれこれを信じているのだと答えるはずである。そして、「これこれ」と言えるものだけ、名指しできるものだけを信じていることになる。神の福音は名指しできない何事かである。名指しできるのは、言語化できるものである。言語化できないものは名指せない。

十字架にしても、どうして十字架が罪の赦しなのかと名指せない。二千年前のイエスの十字架が、二千年後のわたしとどう関わっていると明言できるであろうか。しかし、福音は我々にイエスの十字架がわたしの罪を赦していると告げている。ただその中で信じているのである。方向転換しているのである。それが我々の信仰なのだ。

このお方がわたしに関わってくださっている。このお方が何か善きものをくださっている。このお方がわたしを善きものの中に入れてくださっている。わたしの魂がそのように感じているのだ。言葉では明言できないとしても、このお方は真実であると感じているのだ。どうして、真実なのかとは誰も言えない。ただ、そう感じるのだとしか言えない。このお方はうそはつかないと思えるのだ。

どうしてそうなのかと言えるならば、言い得たことだけを信じていることになる。また、誰かに伝える際にも、その事柄だけを伝えることになる。しかし、我々は神の言を伝えるのである。我々が信じているのは、我々が明言できないが、十字架に神の愛を感じ、福音とはこのお方全体なのだと感じるからである。

感じると言うと、単なる人間的感覚のように思えるかも知れない。言葉に言い表せないものは感じるとしか言えないのである。感覚ではないにしても、そのようにしか言い表せない。それが信仰である。何故なら、神が与え給う信仰なのだから。我々が明言できるものを信じているのは、我々が獲得した信仰である。わたしが信じているのは、これこれだと言えるのはわたしが把握しているものだけなのだ。我々が捕らえられているものではないのだ。

悔い改めること、信じることが起こるのは、福音の中に捕らえられているからである。網のように、福音が我々を捕らえているのだ。それゆえに、漁師たちはそのことが実感として分かったのだろう。網のように、わたしを捕らえる福音の中で、悔い改め、信じるのだと。

悔い改めるという言葉は、方向転換である。生きている向きを変えることである。人間の方に向いていた自分自身が、神の方に向きを変える。これが悔い改めである。この悔い改めがどのようにして、わたしから起こるであろうか。人間が罪人であるということは、罪に捕らえられているということである。罪が絡みついて、離れないということである。そのような人間が自分から方向を転換できるであろうか。できないのである。方向を転換しようとすれば、人間的な方向転換でしかない。それゆえに、方向転換したと思っても、人間の方を向いているのである。神が向きを変えてくださらない限り、我々は方向転換できないのである。いや、神が向きを変えさせてくださってこそ、我々は悔い改めに至るのである。福音という網に捕らわれてこそ、罪の縄目から解かれるのである。罪の足かせを取り除いてくださるのは、福音という網である。福音の中で、我々は神の方を向くようにされるのである。イエスは、そのように宣教したのだ。

人間的な力によっては不可能である悔い改めが、福音という網に捕らわれることで可能となる。これが福音である。これが福音の中に入れられることである。神が我々を捕らえてくださってこそ、我々は神の方を向くのである。では、未だ神の方を向いていない人は、神が捕らえてくださっていないのか。その人たちが網を払いのけるからである。罪は、福音を払いのけようとする。しかし、福音は捕らえようとする。神の力と罪の力が錯綜しているところで、ただ捕らえてくださる神の力に委ねる者のみが信じるのである。福音の中に、ただ入れられる者のみが信じるのである。

我々の力で、罪を払いのけようとしてもできない。ただ神の福音が、罪を払いのけてくださる業に委ねるとき、我々は福音の中にいるのである。ただそれだけなのだ。それゆえに、弟子たちは何も考えないかのように、イエスに従ったのだ。彼らが福音に捕らえられることに自らを委ね、自らを明け渡したからである。

これは簡単なようで難しく、難しいようで簡単なことである。自らの力にこだわる人間には難しい。自らの力の無さに沈んでいる者にも難しい。自らの力を悪であると考える者には易しい。自らが罪に支配されていると感じている者には易しい。自らの罪と悪に苦しんでいる者はどうにもならない自分をどうしようもないと思っている。ここから脱け出す必要があると感じている。何かが必要なのだと感じている。そして、脱け出すのだ。イエスの一声で。

では、弟子たちは罪と悪に苦しんでいたのか。それは明示されてはいない。しかし、彼らはただ捨てた。ただ置き去りにした。そこに、彼らが何かを捨てなければならないということを感じていた結果がある。イエスの一声によって、それが起こったのだ。彼らがイエスに委ねざるを得なかったのは、イエスの声が彼らの中の何かに触れたからである。そして、福音という網に捕らえられたからである。

彼らの魂がイエスの声に感応して、このお方についていこうと思ったのだ。それが福音の中に入れられることであった。イエスの福音は、イエスご自身である。イエスという存在そのものが福音である。我らを捕らえる福音である。このお方のうちで、我々は方向を転換され、信仰を与えられるのだ。

今日共にいただく聖餐において、イエスは福音であるご自身を我々にくださる。イエスがおっしゃる言葉を信じるのでもなく、イエスの出来事を信じるのでもない。ただイエスそのものを信じるのだ。イエスそのものが福音なのだ。この福音そのものをいただく聖餐において、我々は福音に包まれ、福音の中で生きていく。如何なることがあろうとも、福音の中に捕らえられているわたしを生きていこう。イエスがあなたを捉えてくださっているのだから。

祈ります。

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