「沈黙させる権威」

マルコによる福音書1章21節~28節

 「黙れ。そして、彼から出ていけ。」とイエスは言う。会堂の中で、イエスに向かって叫ぶ或る人から出ていくようにと命ずる。汚れた霊に沈黙させるために、イエスは言う。そして、汚れた霊は大声を上げて、彼から出ていった。大声で叫ぶだけではなく、汚れた霊は多くを語る。問われていないことも、自分の思いも、自分の判断も含めて、多くの言葉を弄ぶ汚れた霊。この霊に「黙れ」と言うイエス。イエスの権威は沈黙させる権威である。

沈黙は従うこと。沈黙は認めること。沈黙は受容すること。汚れた霊の思いは退けられ、イエスの命令だけが現実化される。イエスの言葉は沈黙させる権威に満ちている。マルコが言う通り、「彼が権威を持っているように、彼らに教えた。」のだ。そして、人々もこう言っていた。「これは何か。質的に新しい教え、権威に従った。」と。質的に新しい教えとは、命じる教えである。宣言である。律法学者たちは、自己の聖書知識を語り、自己の解釈を語る。しかし、権威に従った質的に新しい教えは宣言するだけである。イエスの思いや判断ではない。ただ命じる教えである、神の意志に従って。

教えというと、知識を与えるもののように考えてしまうが、イエスの教えは知識を与えるのではない。従うことを与える。沈黙を与える。受容を与える。知識ではないのだから、教えと言えるのか。教えではなく、宣言である。宣言し、従わせる教えは、教えではなく、神の言である。イエスの言が、権威に従った質的に新しい教えであるということは、人間的な教えの範疇に入らないということである。質的に新しいのだから、教えという概念にも当てはまらない。むしろ、宣言としての教えである。それゆえに、「宣教」と言われるのである。イエスの宣教は従わせる権威に従っている。従わせる沈黙を与える教え。沈黙させる権威である。イエスの言葉の前には、受け手の判断は差し挟まれない。受け手が勝手に解釈することもあり得ない。ただ、沈黙して、従うだけである。それこそが信仰である。イエスの宣教の言葉は、信仰を与え、沈黙させ、受容させ、信仰のうちに生かす。イエスの言を聞いた者が、沈黙させる権威に従って、沈黙させられている。

しかし、会堂にいた多くの人々は、イエスの前に沈黙することはない。汚れた霊のうちにある人間だけが沈黙する。これは、どういうことであろうか。イエスの言を聞くのは、汚れた霊のうちにある人間だけなのだ。多くをしゃべりまくる汚れた霊のうちにある者だけが聞くのである。不思議なことだ。汚れた霊のうちにあるということが、イエスの言に従う沈黙を生きる契機となる。多くの一般的な人間には沈黙は与えられず、傍観者として、イエスの言の力を評価するだけである。彼らには、イエスの言による信仰は与えられない。彼らが客観的にしか聞かないからである。受け入れないからである。

一般的ではない人間、汚れた霊のうちにある人間が聞く。ということは、多くの言葉でイエスにあれこれまくし立てる人間だけが、真実にイエスに向き合っているということなのか。イエスはその人に向かって、命じる。「黙れ。そして、彼から出ていけ」と。彼を支配している汚れた霊に向かって命じる。イエスが語りかけているのは、汚れた霊のうちにある人間ではなく、汚れた霊である。汚れた霊のうちにある人間自身は、イエスの言を聞いていないのか。受け入れていないのか。従っていないのか。

いや、彼も聞いている。彼は、汚れた霊のうちにある自らの苦しみを知っている。汚れた霊は、彼を支配しているが、彼自身は支配され、苦しんでいる。彼が汚れた霊のうちにあるのだから、実は彼自身が汚れた霊を住まわせているのでもある。彼は、自己分裂しているのだ。自己分裂した人間を救うために、イエスは汚れた霊に「黙れ」と命じる。しゃべりまくる汚れた霊に翻弄されている人間は沈黙している。しゃべりまくる汚れた霊が語る言葉を虚しく聞いている。自分からは何も語ることができず、自分の思いも現実化できず、ただ翻弄されている。そのような存在が、如何にして解放されるのか。イエスが命ずることによってである。イエスの命令だけが、汚れた霊に沈黙させられている存在を真実に神の前に沈黙する従順へと導く。イエスの命令が権威に従った質的に新しい教えだからである。

いずれにしても沈黙させられているのであれば、汚れた霊に支配されている人間は従順なのだろうか。汚れた霊に対しても、神に対しても、彼は従順なのだろうか。だから、どちらにも従順になり得るのだろうか。そうであれば、再び彼は汚れた霊に支配されることもあるのだろうか。出ていった汚れた霊が戻ってくることがあるのだろうか。マルコは記していないが、マタイ、ルカにおいては、イエスはそうおっしゃっていた。戻ってくる汚れた霊に支配されないためには、質的に新しい支配に服さなければならない。質的に新しいのだから、まったく次元の違う教えであり、次元の違う支配である。そのような支配に服させる力こそ、イエスの言の力である。それゆえに、イエスの言に支配されているならば、我々は汚れた霊とは次元の違う質的に新しい支配を受容しているのだ。受容し続けることによって、次元の違う支配の中に留まるのだ。そのときには、汚れた霊が戻ってくることを恐れる必要はない。しかし、イエスの言を聞いて、質的に新しい支配を受け入れたとしても、その言のうちに留まらないならば、結局汚れた霊が戻ってくるとすぐに受け入れてしまう。イエスの言を聞き続けなければ、結局元の木阿弥なのである。

そうならないためには、神の言を聞き続けることが必要である。沈黙させる権威に聞き続けることが必要である。この世のさまざまな言葉に振り回されている我々は、汚れた霊に支配されている。この世の言葉は多くを語り、何も内容がない。心配はさせるが、どこへも導かない。まして、神へ導くことはない。不安をかき立て、恐れさせ、表面的対処方法は語るが、根源的問題を解決することはしない。それが汚れた霊のやり口である。汚れた霊は、どこへも導かない。闇の中に導く。翻弄し、不安と恐れをかき立て、あれが良い、これが良いと言うが、本質的な解決には至らせない。罪を知らせることがないからである。多くを語るが、罪だけは知らせない。人間の根源的問題は知らせない。そうして、人間を混乱に陥れ、神から引き離しておくことが汚れた霊が生きることなのだ。

汚れた霊の糧は、人間が神から離れることである。人間の混乱状態こそ、汚れた霊の喜びである。それを止めさせるのは、イエスの言、神の言、権威に従った質的に新しい教えである。命じ、宣言する神の言が、我々を従わせるとき、汚れた霊の支配から解放される。この解放を生き続けるのは、イエスの言を聞き続けることによる。聞き続けなければ、すぐに汚れた霊の手に落ちるであろう。

我々は、どちらにしても沈黙させられている。沈黙させる権威は、言葉数は少なく、宣言のみを与える。汚れた霊は、言葉数多く、内実なき言葉を重ね、翻弄する。多く語ることは、何も語らない。むしろ、内実ある言を聞き続けることのみが、真実を語ることに至るのである。我々の思いではなく、我々の判断でもなく、我々の願いでもない、真実を。神の言だけが真実である。我々の言葉は、汚れた霊に支配された混乱の言葉である。我々も、薄っぺらな飾りを重ねる自らの言葉を語らず、沈黙して、イエスの言を聞き続けよう。あなたを解放する神の言の力を受け入れよう。そのとき、あなたは神の言の力によって、造られた者として生きることができる。神のものとして生きることができる。真実に神の言に従って、語ることができる。

「黙れ。」と命ずるイエスの言の前に、沈黙してひれ伏そう。イエスの言があなたを生かし、あなたのうちに働く。十字架のイエスと同じ形を、あなたのうちに形づくる言、十字架の言があなたの力なのだ。「黙れ。」と命ずる沈黙させる権威に従って、沈黙して、生きていこう。与えられたものを感謝し、置かれた場所で置かれたように生きていこう。あなたは神の言によって造られた存在なのだから。あなたを造った神の言に聞き従って、魂に命を得るのだ。

祈ります。

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