「宣教する」

マルコによる福音書1章29節~39節

 「わたしたちは行こう、どこか他のところへ、田舎町のあるところへ。またそこで、わたしが宣教するために。何故なら、このことへとわたしは出てきたのだから。」とイエスは言う。どこかへ行くと言う。行く先を決めずに行くと言うのだ。目的地のない旅をするイエス。彼は、ただ宣教するために出てきたからである。どこから出てきたのか。カファルナウムからか。いや、イエス自身の存在自体が出てきた目的が宣教だということである。それゆえに、目的地はない。どこか他のところなのである。「どこか他のところへ」ということは、一つの地に留まらないということである。どこへでも行くイエス。どこにも留まらないイエス。留まることでは宣教できない。何故なら、宣教は「宣言」だからである。宣言して回ることがイエスの使命なのである。

イエスが誰かを説得することはない。ただ神の意志、神の言を宣言するだけである。それを受け入れる者が受け入れる。聞く者が聞く。それだけである。そのような宣教がイエスの宣教である。それゆえに、皆が探しているところには戻らない。ガリラヤの各地を転々としながら、留まらせようとする人間の意志を置き去りにしながら、宣言して回るのである、神の意志を。

人間は、イエスを留めようとする。イエスが不思議な力を持っているからである。イエスが自分たちのところにずっといれば、悪霊も汚れた霊も追い出してくれると思うからである。しかし、追い出された霊が戻ってこないように、神の言を聞き続けなければ、イエスがそこにいても無駄なのだ。人間の罪性を知っておられるイエスは、一人ひとりが神の言を聞くように、イエスに頼ることなく、神に頼るようにと、出ていくのである。イエスの宣教を受けた存在が、イエスが宣言する言のうちに生きることが重要なのである。イエスが身体を持って、そこに居るか居ないかは問題ではないのだ。

我々は、力ある言葉を語る人がそばに居れば、自分も決断できるだろうと思う。その人が励ましてくれればと思う。しかし、結局自分自身が決断するのである。自分自身がどう生きるかを決めるのである。そうでなければ、いつまでもイエスが決めることになってしまう。それでは、その人自身が生きることはない。我々が生きるということは、わたしが生きることである。わたしが生きるために、イエスは出てきたのだ。あなたを生かす神の意志、神の言を宣言するために、出てきたのだ。

イエスは、神の言を語る。語られた神の言を聞いた者の魂が、神の言と一つとなるならば、その人は生きる。神の言を聞いても、魂が神の言と結びつかないならば、その人は神の意志に従うことはない。従って、イエスがそばに居ても居なくても同じである。その人の問題なのだから。

では、神の言を聞き続けるために、イエスはそばに居なくても良いのだろうか。イエスが宣言した神の言が、その人の魂と結びついているならば、その人はイエスの言を聞き続けているのだ。何故なら、イエスの言は、イエスの宣教は、神の言の力に満ちているからである。権威に従った質的に新しい教えだからである。質的に新しい教えの中に生きているならば、神の言を聞き続ける生を生きているのだ。イエスの宣言に従って聞き続けているのだ。

宣教は、使徒パウロが言うように「福音を置く」ということである。宣言である置かれた福音の中に生きることである。福音の中に生きることが宣教に与ることである。イエスが宣言する福音を生きることである。そのとき、その人は福音に包まれて生きている。福音を根源的力として生きている。それゆえに、福音が包んでいるその人は福音である神の言を聞き続けているのだ。この福音自体がイエスそのものである。マルコが福音書の初めにおいて語っていた通り、「神の子、イエス・キリストの福音」とは、イエスが宣言する神の言であり、宣言する神の言のうちに生きるイエスである。従って、イエスがどこにおられようとも、神の言、福音のうちにイエスが生きておられるのだ。イエスは福音を宣教し、宣教するお方として福音である。

イエスが宣教した福音と、福音として宣教されるイエスは一つである。我々が宣教するのは、イエスが宣教した神の言であり、イエスというお方として生きる神の言である。イエスにおいて、福音は神の言として生きているのだ。究極的には、パウロが言う十字架の言である。十字架を生きているイエスが福音であり、神の言である。十字架の言が我々と共にある神。十字架がわたしの魂を生かす神の言である。十字架は、わたしに語り続けている。「わたしは生きている」と。「わたしはあなたのうちで生きている」と。「あなたの罪を引き受けて死んだ」と。「神がこのわたしを生かし給うた」と。「それゆえに、あなたはわたしの十字架の言を聞きなさい」と。十字架の言を聞く者、十字架に自らの罪を聞く者は、「わたしと共に死に、わたしと共に生きるのだ」と。

悪霊、汚れた霊を追い出すイエスが福音である。悪霊を追い出すことがイエスの福音である。悪霊、汚れた霊を沈黙させるのが、イエスの福音であり、福音であるイエスである。我々が沈黙して、イエスの福音を聞くとき、我々を翻弄していた悪霊、汚れた霊は沈黙させられ、我々は解放されるのだ。イエスご自身の宣言が悪霊を追い出すのだ。我々は、解放されて、イエスの言のうちに生きる。シモンのしゅうとめが起こされたように、我々も起こされる。シモンのしゅうとめが仕えたように、我々も仕える。イエスの福音の中では、すべては新しい。質的に新しい世界が我々の前に開ける。過去は後ろに捨て去られ、前に向かって歩む。神の国に向かって歩み続けるのだ。

我々が宣教するのは、このイエスであり、十字架の言である。聞く者が聞く十字架の言である。受け入れる者が受け入れるイエスである。我々が聞くようにすることはできない。我々が受け入れさせることもできない。イエスが、十字架の言が、受け入れる者を起こすのだ。聞くべき者の耳を開くのだ。イエスの宣言によって、我々が捕らえられたように。

我々を捕らえるイエスの言は、シモンのしゅうとめを起こされたイエスの手である。起こされるには、イエスの手に自らを委ねなければならない。自らの力の無さに横たわるしかない我々の魂を生かすのは、イエスの手である。イエスの言である。イエスの宣言である。神の言は、我々を起こし給うイエスの御手にある。イエスは、我々が起き上がって生きることを望まれる。イエスは、仕える生を起こし給う。仕える者は、イエスに起こされた者。魂がイエスの言に生きている者。イエスの宣言がこのわたしにいのちを与え、力を与え、奮い立たせる。イエスの宣教によって生きるようになったあなたは、イエスを伝えるのだ。イエスのいのちを、イエスの十字架を、イエスの言を伝えるのだ。

この世には、さまざまな言葉が行き交っている。さまざまな言葉が生き方を教えている。しかし、根源的な力とはなり得ない。わたしの魂と結びつくことはないからである。十字架の言は、わたしの魂と結びつく神の言である。どこに居ても、聞こえてくる神の言である。「どこか他のところへ」と出ていったイエスが、あなたのところにも来たのだ。あなたが出ていくところにも、イエスは来るのだ。あなたがどこへ行こうとも、どこか他のところへと出ていくイエスが来給う。我々はイエスを迎える。常に迎えるようにイエスの言を聞く。そのとき、イエスは宿り給う、神の言として。

「聞き従って、魂に命を得よ。」と語り給うたヤーウェのいのちは、イエスの十字架において我々に与えられている。イエスの体と血に与って、新たにイエスを迎えよう。あなたの魂がイエスのいのちに満たされ、魂が生きるように受けよう。イエスは、あなたのうちに生きたいのだ。イエスのうちにあなたが生きて欲しいのだ。そのために、差し出されたイエスの体と血をいただいて、我々の体を神に献げられた聖なる生けるいけにえとして、生きていこう。宣教するイエスが、あなたのうちであなたに宣言し続ける。起き上がって、わたしと共に生きよと。「聞け、そしてあなたの魂は生きるであろう。」と。

祈ります。

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