「宣言と命令」

マルコによる福音書2章1節~12節

 「『あなたの諸々の罪は赦されている。』と中風の人に言うことと、『起き上がれ。そして、あなたの床を取り上げよ。そして歩け。』と言うことと、どちらがずっと易しいか。」とイエスは言う。宣言と命令の違いである。宣言は述べることであり、主体はなくとも良いように思える。命令には主体が伴い、主体には責任が伴うと。

しかし、「罪赦されている」という宣言には主体はないのだろうか。主体がなければ、イエスは誰の現実を宣言するのだろうか。イエスは神が罪赦している現実を宣言する。イエスが神の現実を宣言するのであれば、イエスの宣言には神の現実を見ている主体があるのだ。イエスは神の現実を見通して、宣言している。どちらが容易いとは言い切れない。宣言には認めさせる力が必要であり、命令には従わせる力が必要である。

神の命令は従順を要求するが、従うことはその人が神の言を、魂で聞いているか否かにかかっている。命令を聞いても、聞かない者がおり、聞く者がいる。命令する主体の中に入る者が聞く。命令が語られるということは、従うことが自動的に可能になるということではない。命令を聞いた人が、命令する主体の可能の中に入らなければ可能にはならないのだ。この主体の中に入れることが宣言である。宣言を認めた存在が、命令に従うのである。それゆえに、イエスは宣言し、命令する。

宣言は、罪赦すお方の現実を知らせる。命令は罪赦す権威を持っていることを知らせる。「地の上で、人の子が諸々の罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知ってしまうために。」とイエスが言うのは、その通りなのである。従って、どちらが容易いとは言えないが、順序は確かにあるのだ。宣言において、イエスが知らせる「罪赦されている」という神の現実を、中風の人が受け取る。神の現実の中に入れられた中風の人が、イエスの命令を権威ある言として聞く。そして、従う。それゆえに、イエスは起き上がれない者に、「起き上がれ」と命じることができるのである。

この「起き上がれ」という言は、エゲイローというギリシア語で、「復活する」という言でもある。罪赦された中に入った存在が、起き上がり復活するのである。イエスは、この中風の人に、復活者として語っている。神の力によって、起こされた者として語る。イエスは罪赦されている神の現実の中にこの人を入れる。神の現実の中に入れられたこの人が、神の言を聞かないということはあり得ない。それゆえに、彼は「起き上がる」。起き上がれない人に命じること自体がおかしなことである。しかし、イエスは当然可能であるというように、彼に命じる、「起き上がれ」と。起き上がれないという人間的現実においては、彼は起き上がれない。しかし、今や彼はイエスの宣言によって、神の現実の中に入れられている。それゆえに、イエスの命令は彼を起き上がらせる。イエスは、彼がイエスの宣言を聞き、命令に従うことが可能となっていることを知っている。何故なら、イエスは「彼らの信仰を見て」、宣言したからである、「子よ、あなたの諸々の罪は赦されている。」と。

このイエスの宣言は、彼らの信仰を見て、行われた。中風の人だけではなく、彼の友たちの信仰を見て、行われた。友たちは、屋根を掘るほどの信仰があるかのように思えるが、中風の人は何もしていないのではないかと思える。しかし、そうではない。友たちが屋根を掘るという発想に導かれたのは、中風の人が屋根から釣り降ろされることを受け入れるであろうことを友たちが分かっていたからである。中風の友が、自分たちが何を提案しても受け入れると分かっていたからである。中風の友は、友たちにすべてを委ねて、釣り降ろされる。釣り降ろす友たちも、中風の人の信頼に応えて釣り降ろす、イエスの前に。彼らは、一直線に無理矢理人をかき分けることはしなかった。こちらがダメなら、あちらからと、方向を転換したのだ。この柔軟さこそ、信仰の賜物である。そして、彼らに自らを委ねる信頼こそ、信仰の賜物である。神がなすべきことを与え、実現させてくださるとの神の支配への信頼である。彼ら五人の信仰を見たイエスが宣言する。「子よ、あなたの諸々の罪は赦されている。」と。この宣言を、中風の人だけではなく、四人の友も受け入れたであろう。彼らは、中風の人が自分で床を取り上げて、歩くことを喜んだはずだからである。

我々は、人の世話ができることを喜ぶと言いながらも、どうして自分が世話をしなければならないのかとも思うものである。しかし、その人が癒されて、世話する必要がなくなったときには、さびしく思うものでもある。我々には、神が与え給うた現実を受け入れるのは困難である。目の前の人間的現実しか考えられない。こんな自分ができるかと思う反面、できているときには自分の力だと思い込む。神が与えたものは、神が担う力を与えて、実現させる。四人の友たちも、神によって与えられた中風の友を、責任をもって担った。イエスの前に釣り降ろすまでに担った。人垣に閉ざされて、もう前に進めないとあきらめることなく、方向を転換した。神が思いを与え、実現させてくださると信じるがゆえに、彼らは努力もしたのだ。これが信仰における力である。神の力に信頼する力である。イエスが見たのは、この彼らの信仰である。彼らはすでに信仰のうちに入れられていた。それゆえ、降ろし降ろされることを互いに受け入れることができたのである。

では、この信仰はいつ彼らに与えられたのだろうか。信仰が与えられて、神の現実の宣言によって、神の現実の中に入れられ、イエスの権威ある命令を聞くのであれば、信仰はどの時点で与えられたのだろうか。イエスの言を聞く前に、彼らには信仰が与えられていた。この信仰はどこから来たのか。誰が与えたのか。彼らが中風の友をイエスのもとに連れて行こうと思い立った時点である。イエスの言を直接聞いてから、信仰が与えられたわけではない。とすると、この信仰は神が与えていたのである。それゆえに、イエスの許に一直線には連れて行けないという困難の中にあっても、方向転換ができたのである。そのような信仰が与えられた時点がいつなのかは記されていない。しかし、彼らがイエスの噂を聞いて、中風の友を連れて行こうと思い立ったとき、信仰が起こされたと言えるであろう。五人でこの計画を話し合っていたとき、彼らの思いはイエスに向かっていた。そのとき、彼らは信仰のうちに入れられていたのである。

神の招きは常にある。招きの中に入れられることは常に起こっている。しかし、我々人間が人間的現実ばかりに捕らわれているがゆえに、神の招きを拒否する。連れられていくしかない中風の人その人も、自分の現実の中では、無理だとあきらめることもできた。できないことを数え上げることもできた。彼は、そのような中にあって、四人の友の申し出を素直に受け入れたのである。彼らがイエスに向かって、共に歩み出そうとしたとき。そのとき、彼らは信仰のうちに入れられていたのだ。

彼らに信仰を与えたお方の意志に従って、彼らは共に歩き始めた。この神の現実をイエスは宣言し、改めて彼らは神の現実の中にあることを認識した。そのような彼らにイエスは言う。「起き上がれ。そして、あなたの床を取れ。そして、行け、あなたの家へ。」と。起き上がる中風の人だけでなく、屋根の上にいる四人も、彼が起き上がる中に共に生きていた。彼の足が彼自身を支えるのを、自分の足に力を入れながら、生きていた。彼らは、屋根の上、屋根の下、どこにあろうとも、同じ言を生きていた。これが福音に共に与ることである。彼ら五人は共に歩き出したのだ。新たな神の現実の中を。

キリストの十字架から宣言と命令が聞こえる。「あなたの罪は赦されている」、「起き上がれ」、「自分のものを取り上げよ」、そして「歩け」と。信仰に越えられない壁はないのだ。十字架の言は、救われる我々には神の力。苦難を恵み給う神の力。苦難を引き受け給うた主の力。復活に生きているキリストの力。十字架の言を聞き、魂が命を与えられる中を、共に歩みだそう。

祈ります。

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