「運び上げるイエス」

マルコによる福音書9章2節~9節

 「六日後、ペトロとヤコブとヨハネをそばに取って、イエスは彼らを運び上げた、高き山へ、個人的に。」と言われている。イエスが、三人の弟子たちを連れて行ったという言葉は、運び上げるという言葉である。イエスは彼らを高き山へ運び上げた。神の顕現する山へと運び上げた。そこで、ご自身が変容する出来事を見せられた。ご自身の変容を見せる場へと、イエスは三人の弟子たちを運び上げたのである。何故なら、イエスご自身が神であること、イエスがモーセとエリヤと語り合う存在であることを見せる必要があったからである。どうして必要だったのか。彼らが十字架を神の栄光として認識するために必要だったのだ。

この前に、イエスは弟子たちに人の子の十字架の死と復活を語っていた。それに基づいて、こうも語っていた。「もし、誰かがわたしの後に従うことを意志するならば、自分を否定し、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい。」と。十字架がイエスの栄光であり、彼らが取るべき十字架が栄光であること、すなわち神の栄光、神の業であることを示すために、イエスは弟子たちを山に運び上げたのである。神の栄光の場へと運び上げるイエスによって、三人の弟子たちはイエスの栄光の姿を見せられた。しかし、この姿は地上の栄光ではない。それゆえに、ペトロが留めようとしても、消えてしまうのである。

さらに、山上での出来事を人の子の復活までは誰にも物語るなとイエスは命令を与える。この命令によって、運び上げられた弟子たちは山上の姿を自らのうちに記すことになる。誰にも物語らないということは、自らのうちで語るだけになる。自らのうちで語る言葉が、外に出て行くとき、誰かに物語ることが起こる。それゆえに、出ていかない言葉が彼らのうちに語られ続けるのだ。語られ続けることによって、出来事が語っていることを何度も考えるであろう。物語ることはある出来事の叙述であるようでいて、解釈である。しかし、自らのうちで語ることによって、一つの解釈に陥らないようになるであろう。つまり、彼らが簡単に解釈しないように、沈黙を命じたということである。誰にも物語らないということは、互いの間でも沈黙を守ることが必要である。互いに物語り合う中で、さまざまな物語り、さまざまな解釈が出されるかもしれない。しかし、その中でも皆が納得する一つの解釈に確定していくことになるものである。人間は、どこかに落ち着かなければならない気持ちを持っているのだ。それゆえに、ペトロが仮小屋を建てようとも言うのである。

確定した物語りは、仮小屋を建てるようなもので、建てた時点で忘れていくものである。一つの解釈が確定すると、理解したと思い込んでしまうからである。常に、神の言を聞き続けることは、解釈を確定させないということである。そして、豊かに聞き続けることである。我々は、神の言を聞き続けることによって、常に新たにされていく生を生きるのだ。それゆえに、今年の主題聖句は、我々の魂が新たに生きることを求める神の意志であると受け止めるべきである。

イエスは、彼らを運び上げた。運び上げられた存在は、何の変更も加えられず、そのまま運び上げられたのである。そのままの彼らが運び上げられた。それゆえに、イエスは彼らを確定せず、決めつけない生へと向かわせるのだ。それが沈黙命令である。沈黙は聞き続けることであり、沈黙命令は聞き続けよとの命令である。イエスの出来事を自分の都合に合わせて解釈してしまおうとする弟子たちに対して、イエスは解釈させない命令を与えたのだ。ペトロの仮小屋建設提案は、ペトロの都合に合う提案であり、解釈である。山上の変容が素晴らしいので、留めておきたいという感情論の提案である。これは、解釈にもなり得ない。しかし、感情は往々にして確定してしまうものである。自分の感情によって、すべてを解釈するからである。こうして、我々は神の言を自分の感情で解釈し、理解したと思い込むところに陥る。神の言は感情では理解できないのだ。神の言は、理性によって、理解すべき言なのだ。神の言は、冷たい、暖かい、素晴らしいなどという言ではない。神の意志である。神の栄光も、イエスの栄光である十字架も感情では理解できない言である。「わたしとわたしの言を恥じる者を、人の子も恥じるであろう、父の栄光のうちに、聖なる天使たちと共に来たるときに。」ともイエスはおっしゃっていたのだ。恥じるという感情で、イエスの言を受け取る者は、理性的ではない。それは、単に好きだという感情で受け取る者も同じである。イエスの山上の変容が神の栄光を指し示していることは、感情で受け取ることができないことなのである。それゆえに、ペトロは何を答えるのか分からなかったのである。

ペトロは分からないままでいれば良い。何を答えるのか分からないというままで、沈黙していれば良いのだ。イエスの変容を理解するのではなく、何を答えるべきなのかを考え続けることが大事なことなのだ。イエスが山上に運び上げたままのペトロで良いということである。山の上で、イエスの変容に接したのだから、ペトロが変わるということではないのだ。ペトロはペトロのままである。ヤコブもヨハネも地上のままである。地上のまま、地上に降りるのだ。それが運び上げられた者なのだ。ただし、運び上げられたという経験自体は、彼らに付け加わった経験である。この経験に対して、自らが何を答えるかを考え続けることが求められていると言えるであろう。考え続ける中で、一つところに留まらない生を生きるのである。常に、イエスの出来事が我々をどこにも留まらない生へと導くのだ。

この導きを生きるようにと、イエスは三人の弟子たちに何も変化を与えないで、運び上げた。運び上げられた地点で、彼らはイエスの主体の中に入れられた。変わるとすれば、主体を離れさせられたという点においてである。それでも、地上に戻れば、また自らを主体とする生へと戻ってしまうであろう。それゆえに、経験した出来事そのままを保持するように、沈黙が命ぜられるのだ。地上に降りても、運び上げられたように生きることをイエスは求めたのである。従って、ペトロもヤコブもヨハネも、イエスの命令に従うとき、どこにも確定されず、何にも頼らず、誰にも決めつけられない生を生きるのである。このような生が、彼らに求められている生であり、イエスの十字架の生である。

イエスの十字架は、地上の多くの者が罪人だと断定する出来事である。イエスは終わってしまったと判断する出来事である。イエスは誰にも受け入れられなかったと考える出来事である。しかし、神はイエスを罪人だとは確定しない。終わりだとも言わない。受け入れられなかった存在であるとも決定しない。イエスは、神が受け入れた存在である。十字架のままに、受け入れられている存在である。死の姿のまま受け入れられている存在である。ただ、それだけなのだ。そこに意味を作り出し、イエスの十字架を確定しようとする我々人間の勝手な恣意に否を突きつけるのが、実は十字架なのである。そして、この山上の変容においても同じく、運び上げられたままに生きることが求められていると言えるであろう。

我々は、イエスによって運び上げられ、洗礼へと導かれ、イエスの主体の中に生きるようにされたのである。あの十字架が、わたしを運び上げる。神の栄光のうちに、神の業のうちに、神の意志のうちに。神の栄光を見ない者が、神の業を認めない者が、神の意志を聞かない者が、十字架のうちにそのままに引き受けられている。十字架において、我々は高き山に運び上げられている。ペトロたちと同じように、何を答えれば良いのか分からないままに、運び上げられている。ただ、イエスがおられるだけの世界を生きるように。イエスの主体の中を生きるように。イエスの言を聞き続けるようにと、雲の中からの声が言う通りに。イエスだけが主体として生きておられる世界を生きていこう。

そのために、今日もイエスはご自身の体と血をくださる。イエスのうちに入れられた者として、感謝して生きていこう。十字架に引き受けられているわたし自身を。十字架の言を聞き続けながら。

祈ります。

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