「父の目差しの中で」

マタイによる福音書6章1節~6節、16節~21節

 「隠れたことにおいて、見ておられるあなたの父が、払い返すであろう、あなたに。」と言われている。「隠れたことにおいて」あるいは「隠れたところにおいて」見ているとは何を見ているのか。隠れたことを見ているのである。我々の為した外的行為ではなく、我々が為す行為の隠れた意図、意志を見ておられるということである。見ておられる父は、わたしが祈ることによって、払い返すのか。何を。

報いと言われるのは、払い返しである。本来は、あなたのものである。それが献げられた、神に。それゆえに、払い返すということである。払い返すということは、払ったものが返されることである。従って、我々は自分が献げたものを受けるのであり、献げなかったものは受けることはできない。「彼らはすでに報いを受けている」と言われているのは、神に献げていないということである。

我々は献げたものを献げたように受ける。献げなかったなら、受けない、神からは。ただし、献げた相手から受けることになる。人間に献げたのであれば、人間から受ける。その場合は、現在形で受けるので、今受け取っている。神に献げた場合は、未来形で払い返されるので、今は受けていない。従って、「隠れたこと」は未来を内包しているのだ。今は隠れているが、いずれ現れるべきときに現れるという将来を内包している。この在り方が、神に献げるということである。人間に献げる場合は、将来はなく、今献げて、今受けるので、満足感は満たされる。しかし、それで終わりである。イエスは、我々が将来を望みみて生きることを求められたのである。

しかし、将来払い返されるとしても、死んで花実が咲くものかと思えてしまう。今受け取った方が良いではないかと。今、評価され、今誉め讃えられることの方が良いではないかと思う。将来、神から払い返されるであろうと言われても、死んでからならば、誰もうらやましがることはないだろう。誰も良かったねとは言わないであろう。あの人は結局死ぬまで何も得ることはなかったと思われるだけである。それでは、この世で生きていても意味がない。この世に生きているのだから、この世で評価されなければ何のための生なのだ。生きる力も湧かない。将来ではなく、現在が大事なのだと思う。これが罪人の思考である。

我々は、常に今手にすることが大事だと考える。して見ると、使徒パウロが言うように、「今や恵みのとき、今こそ救いの日」ということは当然ではないかと思える。今恵みをいただかなければ、今救われなければと思える。そうである。今が大事である。今が良くなくて、何の人生であろう。今恵みを手にするのだ。今救われるのだ。そのために、何でもしようではないか。自分の手で救いを手にすることが我々の喜びではないか。だから、将来など望みみる必要はないのだ。

こう考えてしまうと、今の恵みを、今の救いを生きることができなくなる。我々は将来を持っておられるお方を信じて、今を生きるのである。この今は、恵みの今である。救われている今である。将来の救いを今生きるのだ。将来の恵みを今受け取るのだ。それは、与え給うお方に献げて生きることによって可能となる現在と将来である。

現在、自分の手にすることができるものを求めている場合、自分が手にすることの中でしか生きることがない。しかし、将来神に与えられることの中で生きるならば、現在自分が手にしていなくとも、手にしているように生きることが可能となる。信仰のうちに生きるということは、そういうことなのである。信仰が神からのものであるがゆえに、そうなのである。信仰が自分からのものである場合は、現在手にできるものを求めるであろう。信仰が神から与えられるものであるならば、現在手にしていなくとも、手にしているように生きるであろう。すでに満たされていると信じて生きるであろう。信仰のうちにある現在と将来を生きるのである。

イエスがおっしゃる「右手の行為を左手に知らせない」ことは、自己確認しないということである。確認なさるのは、隠れたことにおいて見ておられるわたしの父である。それゆえに、見ておられる父に献げるものを献げた人間自身は確認しないのである。そして、神に委ねる。

我々が為したと思うことも、実は神が為さしめ給うたことである。それは真実の実行者に献げるべきである。神が為さしめ給うたのであれば、神の成果であり、わたしの成果ではない。わたしが為したことを神に献げるということは、そういうことである。そのとき、我々は為さしめ給うた神を讃美するだけである。こうして、天にある宝を蓄えるのである。

地上にある宝ではなく、天にある宝を蓄える。わたしの宝が地上にあるならば、わたしの心は地上にある。わたしの宝が天にある宝であるならば、神からいただくものであり、与え給う神にわたしの心は向かっている。神に向かう存在は、いただくように生きるのである。自分が神に何かを与えて、獲得すると考える生き方にはならないのだ。あくまで、神がわたしに与え給うと生きていくのである。それゆえに、わたしの為した業を神に献げることになり、献げたように払い返されるのである。神がわたしに為させ給うたと神に献げるわたしは、わたしのものを持っていない。わたしの意志も、わたしの行為も、わたしに向いていない。地上に向いていない。天上に向いて、意志し、為される行為。これがイエスが求めておられることである。すべては自らの成果ではないので、神に献げられている。献げられたものが、天にある宝である。天にある宝から受けて、わたしは行ったのであり、行うことを天にある宝として生きたのである。

神が為さしめ給うたことがすべてである。わたしが為したことは何もない。わたしが為して、神に評価してもらうことは何もない。わたしがわたしの力でなしたのであれば、評価されるであろう。しかし、わたしはわたしの力で為したのではない。だから、「わたしは評価される存在ではありません」と、神に栄光を帰する。こうして、天における宝は、わたしを生かし、わたしを天に導いていく。その宝は、キリストの十字架である。キリストの十字架という天にある宝が、わたしに与えられて、わたしは為すべきことをなすことができる。栄光は、神に帰される。こうして、すべてにおいて、すべてである神が見ておられることが現れるのである。

父の目差しの中で、我々が生きるということは、わたしの罪が父に見られているということではない。それも確かにあるが、しかし、ここで言われている父の目差しは、裁きの目差しではないのだ。むしろ、我々に与えようとなさる目差し。我々を生かそうとする目差し。我々を、ご自身の力に満たしてくださる目差し。我々が塵に過ぎないことをご存知の目差し。塵に過ぎないものが、神の意志に従って生きることを求める目差し。この目差しは、十字架の上から注がれている。わたしがあなたに与えたのだと見ておられる父。そして、キリストがおられる。

我々は神に献げるように生きるのだ。我々のために、ご自身を十字架に献げ給うたお方に従って、神にすべてを献げて生きるのだ。四旬節の歩みは、十字架から見ておられる父の目差しの中に入れられているわたしを認める歩みである。何一つ、わたしが為したものはないと認める歩みである。何もなし得ない塵に過ぎないわたしにすべてを与え、すべてを為さしめ給うお方を仰いで生きることである。

わたしが手に持っていたいと思うものを、神に献げて生きるとき、あなたは現在と将来を保持し給うお方の中で生きることができる。父なる神のみ子、キリストの現在と将来があなたに与えられる。この恵みは今なのだ。この救いは今なのだ。今受けるのであり、今救われるのである。受けるように生き、救われるように生きる今が、キリストの現在する今である。

四旬節を歩む我々は、キリストの現在を、将来を内包する現在を、自らのすべてを神に献げて、生きていこう。キリストと共に死ぬために。キリストが神にすべてを献げて生きたように、我らも生きていこう。キリストと共に生きるために。

祈ります。

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