「仕え続ける御使い」

マルコによる福音書1章12節~13節

 「そして、すぐに、霊は彼を追い出した、荒野へ」とマルコは語る。イエスは、霊に追い出された。追い出されたところは荒野。サタンがいる荒野。サタンはイエスを試す。しかし、イエスは40日間荒野に居続けた。野獣と一緒にいる主体として、イエスは荒野に居続けた。たとえ、サタンが試しても、居続けた。それは、御使いたちが彼に仕え続けていたからである。

霊に追い出されるということは、イエスが一つところ、安心できる父の懐に居続けることがないようにということである。霊は、イエスが留まりたいところから追い出すのだ。イエスが一つところに留まることは罪なのか。一つところに留まりたいのが人間である。自分の場所を確保したいのが人間である。どこでも良い。とにかく、わたしが居られる場所が欲しいのだ。そのような人間的感情に流されないように、霊は追い出すのだ。

追い出しにおいて、神がイエスを愛しておられることが明示されている。イエスがどこに居ようと、父なる神はイエスを愛している。それゆえに、イエスは父の懐に留まり続ける必要はない。むしろ、どこでも父の懐なのだ。たとえ、サタンから試される荒野であろうとも。野獣と共にいることができるのも、父の追い出しをイエスが受け取っているからである。それゆえに、最後に言われているのだ「御使いたちが、彼に仕え続けていた。」と。

仕え続けている御使いがいる。この御使いは父が送ったもの。父が仕えさせている御使い。父がイエスのために、イエスを支えるために、イエスを愛するがゆえに、送った御使い。何故なら、御使いは神に仕えるのだから。イエスが父の子であるがゆえに、父の意志によって仕え続けている御使いなのだ。

御使いが仕え続けているがゆえに、イエスは居ることができるのだ、野獣と共に。イエスが野獣と共にいるのである。野獣がイエスと共にいるのではない。イエスが主体である。イエスが野獣と共にいることを意志して、居るのだ。野獣がイエスを襲うということはない。何故なら、イエスが造り主なる父の子であることが野獣には分かるから。サタンにも分かるであろう。サタンが如何にイエスを試しても、父の子であるイエスは父の子であることを離れることはない。父の子であることは、父の宣言なのだから。イエスが父の子になろうとしているのではないから。父の子である事実をただ生きているだけなのだから。

荒野に居ることができるのであれば、他の場所には容易に居ることができる。御使いたちが仕え続けているからである。しかし、この世で最低の場所、これ以上ない最悪の場所は荒野ではない。最悪の場所は、十字架の上である。その場所に居ることが可能なのだろうか。可能なのだ。何故なら、御使いたちが仕え続けているのだから。たとえ、最悪の場所であろうと御使いたちは仕え続けている。父の意志に従って、仕え続けているのだから。悪しき意志が働くところにおいて、御使いたちは仕え続けている。それは、パウロが言うような事態である。「罪が増加したところに、恵みが超過的に溢れ出した。」とローマの信徒への手紙5章20節で、パウロは語っている。罪は増加するであろう。しかし、それを超過するほどに、恵みは溢れ出すのである。

我々は、罪を増加させなければ良いのにと思う。増加させない方が良いのではないか。罪を抑える方が良いのではないのか。罪が増加するのを許して、それを越える恵みを溢れ出させるというのは、無駄なのではないのか。罪の増加を抑えれば、無駄に恵みを溢れ出させる必要はないのにと。ところが、罪は増加するのである。神の言が語られれば語られるほど、罪は増加する。何故なら、悪魔は神の言を利用して、罪を増加させるからである。神の言が語られなければ、悪魔は罪を増加させることができない。悪魔がなし得ることは、神の言を語らせないことではなく、語られた神の言を利用して、曲解させることである。ということは、罪を増加させる悪魔の働きを抑えるには、神の言が語られないことが必要になる。それでは、この世界は保たれなくなる。何故なら、この世界が生きているということは、神の言が語られているからである。神の言が語られなければ、悪魔が働く余地はない。しかし、神の言が語られないがゆえに、この世界はない。この世界がないのであれば、悪魔が働くことができないだけではなく、我々も生きることができないのだ。我々も神の言によって形づくられているから。我々は日々神の言によって生かされているから。悪魔が働くことがない世界は、我々が生きることができない世界なのである。悪魔は、我々が生きる糧を利用して、我々に罪を犯させるからである。キリストの十字架も同じである。イエスによって、神の言が語られたがゆえに、祭司長、律法学者たちは、キリストを殺害する決定を下すのだ。そこに、悪魔が働いているのだ。

マルコがイエスの荒野の試しをこのように短く記しているのは、実はこれ以降のイエスの人生が荒野であることを語っているのではないのか。十字架に至るまで、イエスが荒野の人生を生きたことを、サタンの試しの中を生きたことを、野獣と共に生きたことを、マルコは語ろうとしているのではないのか。イエスにとって、この世は荒野。サタンの働く荒野。しかし、神の言が満ち溢れている世界。罪が増加する世界だが、神の恵みが超過的に溢れている世界。この世界にイエスが生きていくということが、荒野に追い出した霊の働き、神の意志。

イエスは、この世界で生きていく、御使いたちに仕え続けられて。我々人間が生きる世界を守るために。我々が生きるために、この世という荒野に追い出されたイエス。悪の増加、罪の増加の中に送り出されたイエスご自身が、神の恵みそのものである。神の意志によって仕え続ける御使いたちが、神の恵みを守り続ける。恵みの超過的溢れを守り続ける。我々自身が如何に罪深くとも、超過的恵みの溢れは、サタンの働きを越えて、我々を包む。我々がサタンに翻弄されようとも、イエスが居続ける。荒野に居続ける。四十日間、荒野に居続けただけではないのだ。その後の人生を、荒野に居続けたように生きたイエス。このお方を支える御使いたちが、イエスに仕え続ける。ゲッセマネにおいても、十字架の上にあっても、イエスに仕え続ける。御使いたちは、イエスに仕えることが使命だから。

神の遣わした御使いたち。神の意志によって遣わされた御使いたち。イエスの人生は、神の意志に守られている。最悪の場所にあっても守られている。十字架の上で、たとえ死んでもなお、御使いたちがイエスに仕える。それゆえに、イエスは十字架を引き受ける。御使いたちに支えられて、十字架を引き受ける。イエスが、十字架にも神の意志の実現を見ることができるのは、御使いたちの仕え続けのゆえである。神の意志がなければ、この世界はない。神の意志がなければ、十字架もない。イエスもない。それゆえに、イエスは神の意志によって仕え続ける御使いたちに励まされ、十字架を引き受ける。荒野での生を引き受けたように。

イエスが神の言を守ったがゆえに、我々は生きることができるのだ。我々が救われうるのは、神の言が、神の恵みが超過的溢れ出しを起こしているからである。この世界が、神の言によって保たれているからである。イエスは、荒野においても、十字架の上においても、神の言の溢れ出しを保ち、溢れ出すように生きたのだ。我々人間の救いのために。このお方によって、我々が救われ、生かされている。荒野に生きてくださったイエスがおられて、我々は今救われている。十字架を生きてくださったお方によって、我々は救われている。このお方のご受難が、我々人間の罪のゆえであったことを覚える四旬節。この期節をイエスの十字架を見上げながら、歩み続けよう。あなたは、神の忍耐と恵みの溢れ出しによって、生かされているのだ。この世界が保たれていることを感謝して、神の言が溢れ出す力を信頼して生きていこう。四旬節のあなたがたの歩みを、御使いたちが支えるであろう。イエスに仕え続けた御使いたちが、イエスに従う者たちを支え給う。神の言が満ち溢れる中を、共に生きて行こう。

祈ります。

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