「死と再起」

マルコによる福音書10章32節~45節

 「何故なら、また、人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために、そして多くの人の代わりの贖い金として彼の魂を与えるために来たのだから。」とイエスは言う。人の子の死を通して、多くの人が救われるために、贖い金として自らの魂を与えるのだと言う。人の子の死によって、死者の再起が行われると。死と再起が、人の子の使命であると、イエスは言う。それゆえに、人の子の三日後の復活は、人の子であるイエスのみならず、多くの人の再起を起こすのである。

しかし、ヤコブとヨハネはそれを理解せず、イエスの栄光のみを見る。「人の子がその栄光のうちに座すとき、一人を右に、一人を左に座ることを、わたしたちに与えてください」と、ヤコブとヨハネがイエスに願う。この願いを聞いて、イエスは言う。「あなたがたは知らないのだ、あなたがたが何を願っているかを。」と。「あなたがたは可能とされるのか、わたしが飲む杯を飲むこと、わたしが沈められる沈めを沈められることを。」と。それに対して、ヤコブとヨハネは言う。「わたしたちは可能とされます。」と。イエスは彼らに言う。「わたしが飲む杯をあなたがたは飲むであろう。そして、わたしが沈められる沈めを、あなたがたは沈められるであろう。しかし、わたしの右から、あるいは左から、座ることは、わたしの可能なことではない。むしろ備えられている者たちに。」と。これは、何を意味しているのだろうか。杯は、イエスの十字架の血を意味し、沈めは洗礼を意味する。それを飲み、沈められるであろうとイエスが言うのは、聖餐と洗礼を意味している。しかし、栄光のうちに座すとき、右から左から座すことはイエスにも可能ではないと言うのである。イエスさえも、神によって座らされるのである。イエスさえも、沈められるのである。これは、イエスに与えられる十字架の死である。これをヤコブとヨハネは自ら為すことはできない。それでも、イエスの血を飲み、イエスと共に死ぬ洗礼に与ることは可能である。これは、すべての人間に与えられるからである。ところが、座すことは「備えられた人たちに可能なこと」なのであると言う。この備えられた人たちとはいったい誰なのか。神が備えた者たちである。それゆえに、彼らは自分から志願して、座すことはないのである。あくまで受けるだけなのである、神から。

これらの言葉を聞いて、他の十人の弟子たちは怒る。そして、イエスは彼らをそばに呼んで言うのだ。「あなたがたのうちで大きくなることを意志する者は、あなたがたの仕える者であれ。また、あなたがたのうちで第一であることを意志する者は、すべての者たちの奴隷であれ。」と。こうして、ご自身の使命が語られるのである。ということは、イエスは大きくなることを意志し、第一であることを意志するのだろうか。それゆえに、仕えるために来て、贖い金として魂を与えるのだろうか。いや、大きなお方であり、第一のお方であるイエスが、仕え、魂を与えるために来たことに基づいて、あなたがたは生きなさいとおっしゃるのだ。これは、イエスに従う者はイエスの意志を受けて生きるということである。イエスに救われた者は、イエスの意志に従うということである。何故なら、救われた者はイエスの魂を贖い金として与えられているからである。救われた者は、イエスに仕えられているからである。仕えられた者が仕える。与えられた者が与える。そのように生きるようにと、イエスはご自身の魂を我々に与え給うたのだ。従って、イエスの救いを受けた者は、イエスの意志を受け取り、イエスの意志に従う必然を生きているのである。

この必然は、受ける者の必然である。もちろん、座すための必然ではない。彼らは座さない。彼らは立って、仕える。彼らは第一ではなく、奴隷として生きる。それがイエスに買い取られた者の生き方である。これが自分の十字架を取ることであり、自分を捨てることである。それが死と再起なのである。

死と再起とは連動している。イエスが死に再起したのは、すべての者が生きるためである。イエスの死と再起によって生きる者が、死と再起によって他者に仕えるために、イエスは十字架の死を引き受けたのだ。イエスは、すべての者が仕える者、奴隷であることを求めておられる。イエスが十字架を負われたのは、我々が仕える者、奴隷であるためである。イエスに従って生きるためである。

このように生きる者は、受け取る者であり、聞く耳のある者であり、選ばれている者である。選ばれている者は、大きくなるために選ばれているのではない。第一になるために選ばれているのでもない。仕えるために、奴隷であるために選ばれているのである。しかし、それが救いなのだろうか。

救いであれば、もっと良い結果にならないのか。救いであれば、大きくなり、第一になれるような結果を与えないのか。大きくなり、第一になることは、ひとりだけに与えられる。しかし、仕える者、奴隷であることは誰でもあることができる。すべての人に可能なのである。たったひとりだけしかなれないものを求めて、争いが生じる。イエスは、争いを与えるために救ったのではない。争いのために疲弊している人間を救うために、ご自身の魂を与えたのだ。争いを誘う救いなどない。互いが仕える者、互いが奴隷であることで、争いがなくなるのだ。争いがなくなることを求めていると言いながら、世の支配者は争いを起こし、争いを誘発する。平和のための戦争を起こして、殺された者たちの遺族が争いを起こす。争いの連鎖が起こる。争いによっては、争いは無くならない。一人ひとりが仕える者、奴隷として自分を生きるとき、争いが無くなるのだ。このような世界を創出するために、イエスは十字架を引き受けられたのだ。すべての人が死と再起を生きるために、十字架を引き受けられたのだ。

死と再起。争いに死に、仕えることに再起する。これがイエスの求めておられることである。我々は争いに死ぬことなど求めることはない。再起すれば、もっと良い地位に就いていたい。それが罪人の思考である。この思考は、我々人間につきまとっている。罪の思考が我々を支配している。誰も仕えたくない。誰も死にたくない。誰も奴隷でありたくない。誰もが第一でありたい。誰もが大きくなりたい。この思考が続く限り、我々人間は救われないのだ。第一であるために争い、大きくなるために争うからである。この争いがある限り、我々は罪からも解放されないのだ。

死と再起。これによってしか、争いは無くならない。死と再起。これによってしか、人間の支配はなくならない。死と再起。これによってしか、我々人間は真実に生きることはない。死と再起によって、我々は新たに、上から、立ち上がるのだ。神の支配の中に立ち上がるのだ。人間の支配に死んで、神の支配に立ち上がる。これが死と再起である。イエスは、そのために来られた。そのために十字架を引き受けられた。このお方の意志があるがゆえに、イエスに従う者は自らを仕える者、奴隷であることを救いとして生きるのである。

救われた者は仕える。救われた者は神の奴隷である。何故なら、神の支配に服しているからである。神がわたしの主人であり、キリストがわたしの主人であると生きているからである。このように生きる人間を創出するために、イエスは十字架を引き受けたのだ。このお方によって、我々は仕える者、奴隷であることを生きるであろう。あなたが自分に死ぬことによって、イエスがあなたのうちに再起し給う。あなたが死ぬことによって、あなたのうちにキリストが形作られる。イエスは、あなたを死に渡し、神の命に生かすお方。このお方に従って、我々は神の支配、神の国に生きることができるのである。

我々自身から仕える者、奴隷であることはできない。しかし、イエスと共に死ぬ洗礼を受け、イエスと共に立ち上がるならば、あなたは争いを作り出すことはない。自分に死に、神に生きるならば、争いは無くなるのだ。そのために、イエスは来給い、十字架の死と神による再起、復活を生きてくださった。あなたは仕える者、奴隷であることを生きることができるのだ、イエスによって。

祈ります。

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