「熱意と死」

ヨハネによる福音書2章13節~22節

 「あなたの家の熱意が、わたしを食い尽くすであろう。」と詩編69編10節の言葉を弟子たちは想い起こす。彼らが想い起こした言葉は未来形である。しかし、ヘブライ語では現在完了である。どうして、未来形で思い起こしたのだろうか。ギリシア語訳旧約聖書においても現在完了で訳されている。それなのに、弟子たちが思い起こすのは未来形である。何故なのか。この言葉が、イエスの十字架を指し示していると理解したからであろうか。いや、弟子たちはこの時点ではまだ十字架を知らないのだ。それならば、彼らは何故未来形で思い起こすのか。彼らは、イエスの行動の行く末がイエスの死に至るのではないかとの危惧を感じたのであろう。それゆえに、詩編の言葉を未来形で思い起こしたのである。

しかし、詩編が語る「食い尽くしてしまっている」という言葉が指し示しているのは、死という結果ではない。死という結果に至る過程において、現在完了していなければ、結果には行き着かないのだ。現在完了が結果を孕んでいるのである。未来を孕みつつ、現在、完了してしまっていることが起こっているのである。弟子たちは、イエスの死を危惧しつつも、いまだそれは回避できるものだとも思っていたであろう。やり過ぎないようにとイエスに忠告したい気持ちでもあったはずである。それゆえに、彼らは未来形で思い起こしたのだ。そこには、弟子たちの願望が反映されている。

しかし、イエスは現在完了で生きている。イエス自身が、ヤーウェの家の熱意に食い尽くされてしまっているがゆえに、イエスは言うのだ。「わたしの父の家を、商売の家として作ってはならない。」と。イエスの父の家と言うのだから、イエスと父とは一体であり、イエスの家でもあるのだ。父の家の熱意はイエスを飲み込んでいる。イエスを支配している。イエスのすべてとなっている。それゆえに、イエスは神殿から、商売人たちを追い出すのである。これは、イエスが父の家を思う熱意なのではなく、父の家に宿っているご自分の民を思う熱意である。父の家がもっている熱意が、イエスを食い尽くしている。民を思うがゆえに、イエスは商売人たちを追い出す。この家は、父の家であると追い出す。父の家だから、誰でも入ることができ、家において憩うことができるのだと追い出す。商売人が商売するために家を使っている。使うだけではなく、商売の家として作っている。商売の家であれば、買う人間しか入れないのだ。お金を払う人間しか入れないのだ。これは父の家ではない。商売人たちの家である。

イエスは、父の家に誰でも招き入れられるために、このような行為をなさった。それは、父の家がすべての民を受け入れたいとの熱意を持っているからである。その熱意に食い尽くされたイエスなのである。従って、イエスが守るのは、父の家の熱意である。イエスは、父の家という建物を守るのではない。父の家が持っている民への熱意を守るのである。誰でも父の家に入って良いのだから。誰でも父に願って良いのだから。誰でも父に叫んで良いのだから。父なる神は、すべての人の祈りに耳を傾けておられるのだから。そのために、この神殿は造られたのだ、ソロモンが神殿建築の際に祈ったように。

ソロモンは、父ダビデの意志を受け継いで、神殿を建築した。奉献の際にソロモンはこう祈っている。「ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください。」と。この言葉の前に、ソロモンはこう祈っていた。「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てた神殿など、なおふさわしくありません。」と。すべての民が祈りを献げるために神殿は建てられた。神は神殿に住まうのではない。神は天にいまして、神殿に向かって祈る民の祈りを聞き届けるお方なのである。それゆえに、民は祈りのために神殿に来るのだ。それなのに、神殿が、父の家が商売の家になっている。誰もが入り、祈ることができない。お金がなければ祈りも聞き届けられないようになっている。これでは、父の家ではない。イエスは、この祈りの家を回復するために、商売人たちを追い出したのだ。それは、イエスの思いなのではなく、父の家の熱意がイエスをしてそうさせたと言えるであろう。それゆえに、弟子たちは詩編の言葉を思い起こしたのである。

イエスが食い尽くされた熱意は、イエスに死をもたらす。しかし、食い尽くされることによって、熱意自体は神のものとして保持される。神の熱意、神の家の熱意は保持されるのである。民を思う神の熱意は守られる。それゆえに、イエスはユダヤ人たちに言うのだ。「この神殿を壊せ。そして、三日でそれをわたしは起こすであろう。」と。これは神殿という建物ではなく、父の家の熱意である。父の家の熱意は壊されることなく、三日で起こされる。それがイエスご自身の体の復活のことだったとヨハネは記している。それゆえに、イエスの復活のときに、弟子たちは書かれてあることとイエスが言った言とを信じたと言われているのである。

ここで神殿と訳されている言葉は、ナオスというギリシア語である。神殿にはヒエロンとナオスがある。ヒエロンは神殿域全体を指し、ナオスは至聖所、神の臨在の場所を指す。従って、神の熱意が宿っているところをイエスは神殿と言っているのである。このナオス至聖所を壊せと言い、三日で起こすとイエスは言ったのだ。従って、イエスが起こされたとき、このナオスの熱意に支配されているイエス自体が起こされたのである。父の家の熱意そのものとして、イエスは復活させられたのである。それゆえに、イエスの復活は、この世の体の復活ではなく、霊的体の復活として起こったのだと言えるであろう。熱意の復活である。

しかし、熱意が復活するとしても、死ななければ復活しない。人々に十字架に付けられ、殺されなければ復活することはない。いや、死を通して、熱意は純粋に熱意自体の復活として輝くのである。それゆえに、熱意は死に向かっている。死をかけて、熱意は働く。死を招こうとも熱意は失われない。死を越えて、熱意は再起する。人間が壊したと思ってもなお、再起する。人間は熱意を破壊することはできない。父の家の熱意を破壊することはできない。父が民を求める熱意を、人間が破壊することはできないのだ。それゆえに、「しるし」を求めるユダヤ人たちに対する答えは、至聖所ナオスの破壊とその熱意の再起として語られるのである。イエスの熱意と死とが指し示す父の家の熱意が、復活することこそ、イエスがここで語っている復活なのである。

イエスご自身の復活は、父の家の熱意の復活であるとしても、父の家の熱意を捨て去り、人間の商売の場所として造られてしまった至聖所ナオスを破壊することが、どうしてイエスの死なのであろうか。しかし、イエスはそう言っているのだ。この神殿ナオスを壊せとは、イエスを殺せということである。イエスという体を食い尽くしている父の家の熱意を壊せということであり、食い尽くされているイエスご自身を殺せと言っているのだ。そして、三日後に、わたしは熱意を起こすであろうと、イエスは答えていることになる。

イエスの受難と死は、父の家の熱意の受難と死である。父の家の熱意が受難し、死んで、起こされる。これがイエスを起こし給う父なる神の意志である。ご自分の民を求め給う父なる神の熱意が、イエスご自身であり、熱意の死はイエスの死である。イエスの死を通して、熱意が殺害された。しかし、イエスは三日で熱意を起こした。神がイエスを起こすことを通して、父の家の熱意、至聖所が起こされたのだ。

イエスの熱意は死を越えて起こされ、父の家の熱意がすべての民のために復活した。熱意は死を招くが、死を越えて復活する、我々のために、我々を思う父の熱意ゆえに。キリストの十字架の死は、父の家の熱意の必然である。熱意と死はキリストの必然であり、我らの救いの必然である。キリストの熱意と死を覚える四旬節。父の家の熱意、至聖所ナオスが起こされる復活に向かって歩み続けよう。

祈ります。

Comments are closed.