「彼を通って」

ヨハネによる福音書3章13節~21節

 「何故なら、神は息子を世へ派遣しなかったのだから、彼が世を裁くためには。むしろ、世が救われるために、彼を通って。」とヨハネは語る。神の息子である彼を通って、世が救われるために、神は息子を派遣したのだと。「彼によって」と訳すこともできるが、第一義は「彼を通って」である。「通る」ということは、彼の中に入ることである。彼の中に入らなければ「通る」ことはできないのだ。では、彼の中に入るとはどういうことであろうか。彼を通ってとはどういうことであろうか。

「彼によって」であれば、救うという動作主体が「彼」である。しかし、「彼を通って」であれば、動作主体は、彼を派遣した神である。「彼」は通るべき存在であって、「彼」が動作主体として救うわけではないからである。「彼を通って」救われるのであれば、「彼」が救うのではなく、「彼」を用いる神が救うのである。究極的に救いの主体は派遣者なる神である。神が人間を救いたいと願ったがゆえに、息子であるイエスは派遣されたのだ。そして、イエスが救うということは、派遣した神がイエスを通して救うということである。従って、「彼によって」であろうとも「彼を通して」救われるのである。

神がイエスを用いるがゆえに、「彼へと信じる者は裁かれていない」と言われるのである。「彼へと信じる」とは、彼の中へと入ることである。イエスの中へと入ることが信じることである。信じる者は、イエスの中へと入っているので、裁かれていないのである。裁きは、入らない者の上に生じている。信じる者は裁かれていない。何故なら、イエスのうちへと入っているがゆえに、神が見るのはイエスだからである。イエスのうちに入る者一人ひとりは、神がイエスを見るがゆえに、それぞれの罪、咎に目を留めることはないのだ。

神が罪、咎に目を留めることがないとしても、罪を認めている者だけが、イエスのうちへと入る。何故なら、イエスのうちに救いがあるからである。救われている者はどのようにして、イエスのうちに救いがあると知るのであろうか。自らの罪を認めている者は、イエスのうちに真実があると見る。何故なら、その人は自らの罪を認めているがゆえに、自らは義しくないことを知っているからである。それゆえに、イエスを見れば、イエスが義しいと認めざるを得ないのだ。このように認める者は、自分もこの世も義しく認識しているのである。

しかし、このような認識はどこから生じるのであろうか。どのようにして、この世と自分との罪を認めうるのだろうか。イエスの十字架を見上げることによってである。イエスの十字架を見上げなければ、我々は自らの罪深い本性を認めることはできないのである。罪深い本性を認めることは、イエスの十字架を起こしたのが自分自身であることを見る目を開かれた存在において可能なのである。では、どのようにして、見る目が開かれるのか。見る目が開かれるには、何が必要なのか。これが問題である。

実は、誰でも開かれるということはないのだ。開かれる者が開かれる。開かれない者が開かれない。それだけである。開かれた者は、自分が神によって開かれたと信じる。しかし、開かれない者は、自分が開かれていないとも分からない。分からないのだから、開かれるようにはならないのだ。ただ、開かれていないことも分からないままに、闇に留まっているだけである。これが、裁きである。

しかし、裁きは裁かれている存在には分からない。分からないがゆえに、裁かれないためにどうするかを考える。そうして、闇に隠れるのである。闇に隠れた時点で、その人は自らの罪を認めてはいる。しかし、自らの罪を神の前にさらけ出すことはせず、闇に隠すのである。隠すとき、その人は隠していることは分かっている。ところが、隠して、裁きを逃れたと思い込み、裁きを見ないようにしている。実は、裁きは自分自身の前にあるのに。こうして、裁かれている存在は裁きを分からず、裁きから逃れる。そして、裁かれていることを生きてしまうのである。これが我々罪人の歩みである。

この歩みから解放し、この道から別の道へと導くために、神は息子であるイエスを派遣した。彼を通って、救われる者が生じるために。彼を通って救われるのは、聞く耳を開かれた者である。見る目を開かれた者である。自らの罪を認めた者である。彼は、イエスの中へ入って、イエスを通って、救いへと脱出するのである、この世から。

彼を通る者は、イエスと同じように苦しむ。イエスは十字架の上で苦しむが、我々は自らの十字架を取って苦しむ。自らの罪を見つめて苦しむ。闇に逃げたい自分をあえて、光にさらして、苦しむ。光にさらされることを通して、我々はイエスを通るのである。そうして、自らの罪の苦しみをイエスが十字架で引き受けてくださったことを受け入れるのである。自らの罪を光にさらすのは苦しい。しかし、さらさなければ、このわたしは平安にはならない。これを知っているのが、耳を開かれ、心を開かれた存在である。自らの罪に苦しんでいる者が、開かれた存在である。この存在が、イエスを通る。

彼を通って救われるのは、自らの罪に苦しみ、自らの罪を神の前にさらす者である。闇に逃げる者は、自らの罪に苦しみたくないがゆえに、罪を見ないで良いように闇に隠れるのである。苦しみを避けることで、自ら裁かれているのである。光のところへ来ないがゆえに、裁かれている。裁かれていることすら分からずに裁かれている。これが彼を通らない輩である。

彼を通る存在は、苦しくとも光のところへ来て、自らの罪をさらす。さらした罪は神の前に明らかである。明らかである罪を自ら認めているがゆえに、罪の苦しみからは解放されている。罪を隠す方が苦しいのだ。しかし、この世の人間、闇に隠れる人間は、罪を隠す方が平安であると思っている。平安ではないのに、平安だと思っている。いつも光に照らされないようにと、逃げ回って、平安だと思っている。逃げ回る以上、平安ではないのに。こうして、闇に隠れる存在は、イエスを通ることなく、救いへと脱出することなく、いつまでも逃げ回って過ごす。逃げ回って、最終的裁きを生きている。最終的裁きは逃げられないのに、逃げている。逃げているが逃げられない。それゆえに、闇に隠れ続け、闇と共に光の世界に出てくることができず、自らをありのままに生きることができない。ありのままに生きることができないがゆえに、その人は死んでしまうのである、この世の消滅と共に。闇の消滅と共に。

我々は、四旬節を歩んでいる。この四旬節には、自らの罪を認め、イエスを通って、自らの十字架を担い、イエスに従うことを求めて行こう。イエスはあなたを包み、救いへと押し出してくださる。イエスのうちに入る者が、イエスと共に復活に与る。それは、イエスのうちに入る者が死ぬことを意味している。イエスのうちへ入るとは、彼を通るとは、自らがイエスと共に死ぬことなのだ。イエスと共に死ぬことを通して、我々はイエスと共に新しい命に生きるのだ。復活の命に生きるのだ。永遠の命に生きるのだ。新しい世界へと生み出されるのだ、彼を通って。

「彼を通って」とは、狭き門を通ることである。十字架という狭き門を通ることである。自らの罪の十字架を担い、イエスを通ることが狭き門である。狭き門は、誰もが通りたくない門である。狭き門は誰も入りたくない門である。狭き門は命に通じているのに、逃げたくなる門である。苦しみを通ることを通して、我々は命に至るのだということを忘れてはならない。イエスが十字架を通って、復活の命に至ったように、我々もイエスを通って、復活の命に至る。彼を通って、新しい命、永遠の命に至るのだ。

今日、共にいただく聖餐は、狭き門としてのイエスの命をいただくことである。イエスの十字架の死をいただくことである。イエスの死を宣べ伝えることである。イエスの死が、このわたしの罪のために起こったのだと認めることである。そのとき、我々は彼を通って、救われる。彼を通って、命に至る。彼を通って、神に造られたありのままの自分を生きる。イエスはあなたを命に至らせるお方なのだから。

祈ります。

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