「裁きと永遠の命」

ヨハネによる福音書12章36節b~50節

 「そして、わたしは知ってしまっている。彼の掟が永遠の命であると。それで、わたしは語っている。ちょうど父がわたしに語ってしまっていると同じように。そのように、わたしは語っている。」とイエスは言う。イエスは、父が彼に語ってしまっているとちょうど同じように、語っていると言う。父がイエスに語ってしまっているので、語っているのだと言うのである。父がイエスに語ってしまっていなければ、イエスも語らないということである。それゆえに、イエスは自分から語っているのではないのだとも言ったのだ。イエスの思いで語っているのではない言葉がある。この言葉自体は、イエスが考え出したものではなく、父がイエスに語ってしまっている言葉なのである。その言葉をイエスはどこで、どのように聞いたのであろうか。父が派遣した時点で聞いたのだろうか。父の派遣の言葉として、イエスが聞いたのだろうか。

確かに、誰かを派遣する際には、使命を与えて派遣するものである。イエスが父から派遣されたと言っているのだから、派遣されたときに受け取った言葉があるはずである。何を言い、何を語るかを、イエスは父から受け取ったのである。それが「永遠の命」だとイエスは言う。これは良く分からない議論である。

「永遠の命」が父の掟エントレーであるとイエスは言うのだ。この掟エントレーは、定めであり、制定されたとおりに行うことが、制定した者への従順を意味するのである。そうであれば、父によって制定された「永遠の命」に従うことが、聞く者に求められているのだ。そして、「永遠の命」がイエスが言うべきことであり、語るべきことなのだと、イエスは言うのだ。その言葉が、終わりの日に聞いた者を裁くのだとも言うのである。従って、「永遠の命」に従う者は裁かれておらず、従わない者が裁かれている。終わりの日に最終的な裁きがあるが、それまでは悔い改めという生きる向きの方向転換も可能なのである。この猶予期間において、イエスが言うこと、イエスが語ることを聞き、「永遠の命」という掟に従うように求められているのが、我々人間なのである。

では、「永遠の命」が制定されたものであるとはどういうことであろうか。「永遠の命」は父が定めたのである。「永遠の命」から外れてしまった罪人である人間は、父の定めから離れてしまったのだ。「永遠の命」は制定されているのだから、変わらない。変わるべきは、我々人間の方である。しかし、イエスを派遣した父は、人間を強制的に変えようとはしないのだ。何故なら、自分自身で考え、悔い改めて、方向転換するのでなければ、結局誰も従う者にはなり得ないからである。とは言え、従いましたと成果として提示するならば、それは従っていることにはならない。従順とは、成果でもなく、その提示でもなく、神という主体の中に入ること自体だからである。成果として提示して、「永遠の命」を得ようとしても、従順ではないので、得ることはできない。まして、「永遠の命」は誰かが得るような命ではないのだ。ただ、父なる神が制定した命なのである。だから、その命の中に入らなければならないのだ。人間が手に入れるものではない。人間を生かすために包み込むのが「永遠の命」なのである。

そうであれば、「永遠の命」は誰も手に入れることはできない。誰も獲得できない命が「永遠の命」なのである。いや、「永遠の命」でなくとも、この世の死すべき命さえも我々は手に入れることはできないのだ。我々人間がつかむことができないのが我々の命である。この命は我々人間の対象ではない。我々人間を生かしている主体である。それと同じように「永遠の命」は対象ではない。我々人間を永遠に生かす主体が「永遠の命」である。この命が父の制定であるということは、制定された命の中に入らなければ、我々は永遠に生きることはできないということである。

ややもすると、永遠に生きたいとは思わないなどと我々は言う。だから、永遠の命などいらないのだと言う人もいるであろう。そのような人間のこともご存知で、父は「永遠の命」を制定したのである。父が制定しようと決めたからである。制定されたがゆえに、変更することは人間にはできない。獲得することも人間にはできない。制定された「永遠の命」の中に入ることしかできないのである。入れば、我々が行うことはすべて「永遠の命」である。そこには永遠の命しかないからである。

行うことすべてが「永遠の命」であるということは、「永遠の命」は生きるものであるということになる。「永遠の命」によって、生かされることが「永遠の命」に従うことである。「永遠の命」に従わないことで、「永遠の命」の外に出てしまうことになる。こうして、「永遠の命」は掟として、我々を裁くものとなる。いや、我々が「永遠の命」を対象化する限り、我々は裁かれているのだ。裁かれないためには、「永遠の命」という主体の中に入ることしかないのだ。そうであれば、「永遠の命」自体が我々を裁くのである。イエスが語る言葉が「永遠の命」であるから、イエスが語る言葉に従わないときには、イエスが裁くのではない。イエスが語った言葉が裁きとして働いているのだ。従わないということにおいて、我々は「永遠の命」の外に生きることになり、裁きを生きていることになる。こうして、裁きは確定してしまうのである。

イエスは誰も裁かない。何故なら、イエスは救うために来たからである。イエスが語るのは、人間を救いたいとの父の意志に従って、語るのである。救われて欲しいがゆえに語る。それがイエスを派遣した父の意志だからである。すべての人間が救われて欲しいという意志こそ、イエスの父である神の意志である。この意志を無視するとき、我々は自分で裁きを生きている。この意志を無視するとき、我々は裁きである「永遠の命」に裁かれている。この意志を無視するとき、我々はイエスから裁かれるのではない。イエスを裁いているのである。イエスを裁いて、十字架に架けているのは我々である。我々がイエスを裁いた十字架が、我々を裁く十字架となる。我々がイエスを対象化して裁いたからである。我々が対象化したイエスの十字架は、我々がイエスを裁いたのではなく、我々が自分自身を裁いたのである。こうして、我々は自分の裁く裁きによって、裁かれているのである。我々がイエスの十字架を対象化しないならば、我々はイエスの十字架をわたしそのものとして生きていることになるのだから、裁かれない。イエスの十字架のうちに生かされている。イエスの十字架が我々を生かす。十字架がイエスの最終的な言葉である。使徒パウロが言う「十字架の言葉」である。従って、十字架は永遠の命であり、十字架は裁きである。裁きと永遠の命は十字架にある。

あなたが十字架を自分自身の罪そのものとして受け入れているならば、あなたは救われている。救われているがゆえに、裁かれず、永遠の命に受け入れられている。これは、誰も見ず、誰も理解せず、誰も向きを変えることがないことである。何故なら、見ることは対象化であり、理解することも、向きを変えることも、対象化だからである。そうすると、見ないで、理解しないで、向きを変えないことにおいて、対象化がなくなる。対象化がなくなることで、救われていることになる。すなわち、あるがままにあることを認めることになるのだ。こうして、我々は裁かれないことを生きることになる。このとき、我々は永遠の命の中に生かされている。このとき、我々は十字架のゆえに生かされている。このとき、我々はイエスの言のうちに生かされている。イエスの語った言葉が我々を生かすのである。

あなたがあるようにあることを求められる父なる神が、あなたを救うのである。あなたが救われるために何かをなすのではない。父がすでに制定している「永遠の命」があるだけなのだ。「永遠の命」自体をあると認めるとき、あなたは救われている。「永遠の命」の中にあなた自身があるのだ。あなたが見失っているあなたの命があるのだ。十字架のうちにあるのだ、裁きと永遠の命が。あなたの救いとして、十字架が、裁きと永遠の命が立っている。

祈ります。

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