「縛りを解く派遣」

マルコによる福音書11章1節~11節

 「あなたがたの対面している村へ行きなさい。そして、そこへ入っていくとすぐ、あなたがたは見出すであろう、縛られている子ロバを、いまだ人間の誰も座ったことのない子ロバを。あなたがたは彼を解きなさい。そして、あなたがたは連れてきなさい。」とイエスは言う。弟子たちを派遣するイエス。派遣された弟子たちが、子ロバをすぐに見出すであろうと語るイエス。子ロバを解けと言う。そして、連れてくるようにと指示するイエス。イエスは、弟子たちを派遣したが、その目的は「縛られている子ロバを解く」ことであった。イエスの弟子派遣は、子ロバを連れてくることではあるが、その前に縛りを解くことが彼らの使命である。縛りを解こうとすると、それを止める者がいるであろうが、イエスが語った通りに言えば、許されるとも言ったのだ。それゆえに、イエスの弟子派遣は縛りを解くことであった。

イエスが子ロバに乗って、エルサレムに入城することは、低き王としての姿ではあるが、そこには縛りを解くという使命が隠れているのである。イエスがこれから担うのは、人間を縛っているものを解くことである。人間を縛っているもの、それは罪である。罪に縛られ、身動きできない者として生きている我々をイエスは解くのである。誰も乗ったことがない子ロバが示しているのは、我々一人ひとりが誰も乗せない状態であるということである。誰も乗せないわたしは、わたしひとりで生きていると思っている。神がわたしを造られたのだとは思っていない。わたしは自然に生まれたのであり、偶然生まれたのだと思っている。わたしを生きるのはわたしだと思っている。そのような一人ひとりの人間は、他の人間の誰も自分の上に座らせない者である。さらに、神さえも自分の上に座らせないのが我々人間である。何故なら、罪は我々が神を自分の主と認めないことに端を発しているからである。

我々は誰も座らせない。神さえも座らせない。そのような人間が、弟子たちを制止する。「何故、このようなことをするのか。」と。しかし、制止する人間の言葉を覆すのはイエスの言である。イエスの言が、誰も座らせない人間の制止を解き、子ロバに自由を与える。これがイエスのエルサレム入城の目的である。そして、十字架の目的である。

我々人間は、自分の上に誰も座らせない。座らせているようでいて、実は座らせていない。この世の利害関係では、仕方なく座らせることもある。しかし、心は座らせていない。神に対しても、同じように振る舞う。神がわたしの上に座ってもらうと困るのだ。自分の思うようにできないからである。自分の思うように生きることが自由だと思い込んでいるからである。神から強制されたくない。神の意志に従いたくない。むしろ、神を使いたい、自分の都合に合うように。これが我々人間なのである。このような人間が、実は罪に縛られている人間である。

罪に縛られていながら、縛られているとは思っていないのが人間である。縛られているがゆえに、神の意志に従わないようになっているのに、罪は巧妙に自らを隠し、我々を欺く。我々は自分で自由だと思い込んで、不自由を生きている。我々が自由であると思い込んでいるのは、罪がそのように認識させているからである。罪の覆いによって、我々は正しい認識ができなくなっているのだ。この罪の縛りを解くために、イエスは弟子たちを派遣した。しかし、この時点では弟子たちは何も分からない。イエスの派遣の意味も分からない。子ロバの意味も分からない。ただ、イエスがおっしゃったことに従い、おっしゃったように言うだけである。この不思議な出来事を、弟子たちはイエスの復活の後、思い起こしたのだ。あのとき、イエスが我々を派遣したのは、縛りを解くためであったと。イエスの復活の後、弟子たちは自分たちがイエスの十字架を前にして、派遣された意味を見出した。見出した意味が、彼らを再び派遣する。あの子ロバのように、我々も縛られていた。罪に縛られていた。この罪からの解放をイエスは十字架の上で成し遂げてくださったのだと、弟子たちは認識したのだ。それゆえに、彼らは再び立つことができたのだ。イエスの派遣の意味を受け取ったとき、弟子たちは復活したと言えるであろう。

我々を縛っている罪の働きは、巧妙である。我々自身さえも分からないように縛り付けている。イエスを誉める群衆も同じである。彼らは、分からないままに、イエスを誉めている。分からないということが罪である。自分たちが何を言っているのか分からないということは、彼らがその場の雰囲気に飲まれているということである。我々は、このように流されてしまう。流されて、自らを見失い、どこへ行くのか、何故行くのかを分からないで罪を犯すのである。彼らは悪いことをしているとは思っていない。イエスを迎えている。しかし、何故、イエスを迎えるのかを分からない。他人事のように迎えているのだ。イエスを誉めながら、イエスが何のために来るのかを分かっていない。彼らは、「我々の父ダビデの来るべき国が祝福される」ことを求めている。つまりは、地上的国の祝福を求めているのである。それゆえに、彼らはイエスの意志、神の意志を理解していないのである。それも仕方ないことではある。しかし、我々罪人は仕方ないと言って、罪を犯すのである。罪を犯し続けるのは、「仕方ない。仕方ない。」と繰り返す我々なのである。「あのときは、仕方なかったのだ。誰もがそのように流れていったのだから。」と。訳も分からず、流れに身を任せてしまう罪が、我々の罪である。無思考性という罪である。何も考えず、仕方なかったのだと言ってしまう罪である。罪の邪悪さ、罪の凡庸さは、ここに極まるのである。

弟子たちでさえも、何も分からないままに、イエスに従っているが、彼らの幸いはイエスの言に従ったことである。結局、我々はみことばに従って生きるのか、時代の流れに従って生きるのかで違ってくるのである。我々の歩む道は、イエスの道である。十字架の道である。誰もが通りたくない道である。誰もが良く考えなければならない道である。誰もが考えたくない道である。誰もが理解しない道である。イエスの十字架の道は、縛りを解く道である。縛られていることを自覚した時点で、ようやく歩み出せる道である。いや、自覚だけではダメなのだ。イエスの言に従う信仰がなければ、この険しい道に足を踏み入れることは困難である。イエスが進む道を、客観的に見ていることはできるであろう。しかし、イエスの後をついていくことは困難である。何故なら、険しく、困難で、自分を捨てなければ歩めないからである。

イエスは、子ロバの上に座して、この道を進む。我々は、イエスが進む道に従って行けるのか。信仰を与えられていれば行けるのだ。自分の信じる心では進み行けないであろう。神が与え給う信仰を受け取っていれば、我々はイエスに従い、進み行くことができるのである。そうでなければ、周りの雰囲気に流されるばかりである。

進み行くイエスに従う群衆が、縛りから解かれるようにと、イエスは子ロバに座す。あなたの上に、座したいと子ロバの上に座す。子ロバは、あなたなのだ。あなたのために、わたしは十字架を担うとイエスはエルサレムに入って行かれる。縛られず、解き放たれて、生きなさいと。縛りを解くのは、わたしの十字架であると。

イエスが入っていくエルサレムは、イエスを十字架につけるエルサレムである。縛られているエルサレムである。父の家が、強盗の巣となっているエルサレムである。奪い合い、競い合う世界となっている父の家。神の世界は、与え合う世界である。すべてを神からいただいたものとして、分かち合う世界である。この世界が来たるために、イエスは今日エルサレムに入城する。

今日、共にいただくキリストの体と血は、あなたのうちで命となる。イエスが生きて働き、あなたを派遣する。この世の支配の中へと派遣する。この世の中で、あなたが縛りを解く働きをなすようにと派遣する。キリストの体と血に与って、送り出されていこう、縛られている世界に、解き放ち給うイエスを伝えるために。

祈ります。

Comments are closed.