「不安を抱えて」

マタイによる福音書26章14節~25節

 「もしかして、わたしがあるのではないですよね。主よ。」と弟子たちは言う。「わたしがある」ということがないはずだと問う。イエスを引き渡す役割をなすのは「わたしがある」ことではないはずだと言うのだ。しかし、ここには不安が孕まれている。不安を抱えながら、弟子たちはイエスに「いや、あなたがあるのではない」という答えを期待しているのである。それでも、彼らは自信がない。もしかしたら、わたしがイエスを引き渡すのかも知れないという不安を抱えているのだ。これは正しい認識である。

我々人間は、常に周りに流されてしまうものである。イエスにここまでついてきたが、最後の最後、わたしがイエスを引き渡すということが起こらないとは言えない。わたしの信念は揺らぐ。わたしの信仰も揺らぐ。わたしの自負も揺らぐ。そのような弟子たちの言葉を耳にしながら、最後のユダの言葉に対してイエスは言う。「あなたが言った。」と。ユダが言ったとはどういう意味であろうか。他の弟子たちも言ったのだ。ユダだけが「ラビ、先生」と呼びかけたとしても、「もしかして、わたしがあるのではないですよね。」と同じ言葉を言ったのだ。それなのに、ユダに対してイエスが「あなたが言った」と言う。これはユダが言ったことだという意味だが、ユダが何を言ったのか。同じ言葉を言ったはずなのに、ユダだけは自分の思いを語ったということなのだろうか。ユダだけが「あなたがたはわたしに何を与えることを意志するか。またわたしは、あなたがたに彼を引き渡すであろう。」と言ったのだ。イエスはこの言葉をユダが言ったとここで語っているのだろうか。確かに、ユダが「わたしは、あなたがたに彼を引き渡すであろう」と言ったのだ。この言葉をイエスがここで確定したということであろうか。イエスが確定したユダの言葉は、ユダが言った言葉である。この言葉を言ったということがイエスによって知られ、イエスによって確定されている。ここにおいて、ユダの言ったことが「わたしがある」ことなのだとイエスは言うのである。ユダの言葉も「わたしがある」ことである。神が「わたしがある」と言った言葉と同じように、ユダも「わたしがある」と言ったのだ。つまり、ユダはこの世界を自分が支配しているかのように生きたということである。ユダが「引き渡す」と言ったことによって、「わたしがある」お方である神のようにイエスを引き渡すと言ったのだ。それゆえに、イエスはユダに言う。「あなたが言った」と。

イエスが言うことによって、ユダの言ったことが確定され、ユダが未来形で「引き渡すであろう」と言った言葉が、現実化されていくのである。ユダは、この時点で自らを省み、言った言葉を覆すことが可能ではあった。しかし、イエスの前で「わたしがあるのではないですよね。」と自分を誤魔化したがゆえに、イエスの確定の言葉が語られてしまったのだ。自分を誤魔化す者は、誤魔化しによって確定されてしまうのだ、罪に。ユダがここで告白するならば、彼は自分が言った言葉を手放すことができたであろう。しかし、彼が言った言葉が彼を放さなかったのだ。誤魔化しにおいて、彼は自分が語った言葉に捕らわれてしまった。これが罪の支配である。

我々は、自らを正しく表すならば、言った言葉を確定されることはない。しかし、自らを誤魔化すならば、言った言葉が我々を捕らえ、支配されてしまうのである。このような言葉が、我々の言葉である。我々が言葉を軽んじるならば、我々は言葉に捕らわれてしまうのである。捕らわれないためには、言葉を吟味することが必要である。語る言葉を自分が語るべきなのかを吟味する必要があるのだ。そうでなければ、我々は自らの口から出た言葉に汚され、支配されてしまうのである。

しかし、他の弟子たちはどうなのだろうか。彼らは不安の中で「わたしがあるのではないですよね」とイエスに否定を求めている。確かに、彼らは自らが引き渡すかも知れないという不安を持っている。彼らもユダも、引き渡す可能性を持っている。しかし、引き渡す可能性を持っていることを弁えて、語る言葉は、彼らを守るのである。同じ言葉を語りながら、自らの語ってしまった言葉を誤魔化しているユダの言葉は、彼を守ることはない。この時点での弟子たちの間では、ユダは引き渡しの約束を隠すことはできた。しかし、結局、隠すことはできないのだ。ゲッセマネの祈りの後、ユダがイエスに接吻し、こう言われる。「友よ、訪れてきていることをせよ」と。先にユダが語った言葉は、未来形であったが、この時点で未来が訪れてきているのである。それをなせとイエスはユダに言ったのだ。イエスが確定した言葉が現実化するようにと、イエスは言うのである。「あなたが言った」のだからと。こうして、ユダが語った「わたしが彼を引き渡すであろう」という言葉は、イエスによって確定されたように確定されるのである。

一方、引き渡しの可能性を持っている自分自身を弁えながら語った他の弟子たちは、その不安の中で自らを問い、戒めている。そのようなことをしてはならないと。それゆえに、彼らは自制することが可能となっているのである。我々は常に自分に不安を抱えている。しかし、それが我々を守る不安であることも忘れてはならない。不安を払拭するのではなく、不安の中で自らが罪に流されてしまうことを弁えていることが、我々を守るのである。罪の現実化から守るのである。もちろん、現実化していなくとも、同じ罪を抱えている罪人であることは変わりない。それゆえに、我々は他者の罪を裁くことはできない。如何なる人間であろうとも、可能性としての罪を抱えているのだから。我々は罪人なのだから。

ユダが現実化してしまった罪を、現実化したということで批判するだけならば、我々も罪に支配されるであろう。しかし、現実化した罪を、我々も現実化する可能性を持っていると認識し、戒めているならば、現実化から免れるであろう。少なくとも、不安を自らのうちに持ち続けているならば。そのとき、イエスが与え給うた不安として、受け取っているならば、我々は守られるのである、罪の現実化から。

引き渡しは、最終的には神が引き渡したということではある。「彼について書かれてしまっている通りに、人の子は行く」のだから、書かれてしまっている神の言の通りに、引き渡される。神の言が現実化するのである。それでもなお、引き渡す存在は不幸である。何故なら、彼が「わたしがある」お方である神のように、「わたしは引き渡すであろう」と宣言しているからである。神の言に従って生きるのではなく、神の言が現実化してしまうように生きるのが、罪人なのである。神の言に従っているならば、引き渡しは起こらない。しかし、神としてイエスを引き渡そうとする存在において、引き渡しが起こる。これは、神の言が現実化してしまうことであった。神の言がユダを裁いてしまっている通りに、彼は行ったということである。

ここから逃れるには、自らが不安を抱えながらも、不安を払拭せず、自負を捨てる必要がある。それがなければ、我々は常に罪に支配されていくのである。この聖なる週。我々は自らが罪を犯す不安を抱えながら、自らに問うていかなければならない。「わたしがあるのではないはずなのに、わたしがあるかのように生きてしまう可能性を持っている」わたしを問うて行かなければならない。そのように生きるとき、可能性としての罪を引き受けてくださったイエスの十字架を受け取る者とされるであろう。

この週、イエスが引き受けてくださったわたしの罪の可能性を心に刻みながら、一日一日を生きていこう。あなたがあるのではなく、イエスがあるのだ。あなたがあるのではなく、神があるのだ。あなたがあるのは、神のうちに、イエスのうちにあるときだけなのだ。神の主体の中で生きることを求めて、歩み続けよう、イエスに従って、自分の十字架を取って。

祈ります。

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