「ひな型」

ヨハネによる福音書13章1節~17節

 「何故なら、ひな型をあなたがたにわたしが与えたからである。わたしが行ったとちょうど同じように、またあなたがたが行うために。」とイエスは言う。「ひな型を与えた」と言う。「ひな型」ヒュポデイグマとは、輪郭を描いて見せることである。輪郭なのだから、その型だけを辿れば良いのではない。輪郭はイエスが与えている。輪郭を描くのはイエスである。その輪郭から外れないように、輪郭に内実を与えることが弟子たちがなすべきことである。ここで与えられたひな型は、足を洗うという型であるが、足を洗えば良いのではない。足を洗うという型に内実を与えなければならないのだ。さらに、足だけを洗っていれば良いのでもない。足を洗うという型に従って、自らの行為をなしていくことが必要なのである。イエスが行ったとちょうど同じようになすこと。それが、弟子たちに求められていることである。

では、足を洗うとは、如何なることなのだろうか。足を洗い合えば何が行われるのか。奴隷が奴隷として、遣わされた者が遣わされた者として、生きることが生じるのである。足を洗うという行為は、奴隷の仕事である。奴隷が主人の足を洗う。それゆえに、奴隷としての仕事を喜んで行うことが、今日イエスが示されたことである。しかし、奴隷であることを知らなければ、奴隷として生きることはできない。従って、弟子たちはまず自らが奴隷であることを知らなければならないのだ。

それでは、イエスは弟子たちの奴隷なのか。弟子たちの奴隷である。弟子たちに仕えるイエスである。主人ではなく、奴隷としてイエスは生きている。その根源は、神がイエスを遣わしたということにある。イエスは神の奴隷なのか。いや、神のひとり子である。ひとり子である神が、弟子たちに仕える奴隷として派遣されたということに、キリストの生き方が現れているのである。これは、フィリピの信徒への手紙2章6節以降に語られているキリスト讃歌に明らかである。キリストは神の形であるが、奴隷の形となったと、キリスト讃歌は歌う。神がキリストを派遣したのは、奴隷の形となるためであった。これは、今日言われているひな型という言葉ではないが、同じ意味を表している。形は形であり、形の中に内実が現れる。つまり、形が奴隷であろうとも、内実は神である。我々人間の場合は、形が神であるかのように振る舞いながら、内実は罪の奴隷である。キリストの場合は、形が奴隷であるが、内実は神である。形に込められた意味は、神が人間に仕えるという内実である。これは、外観だけを見ている者には理解されない。奴隷は奴隷の形をしているとしか見えないからである。

ところが、奴隷の形であろうとも、神であるということがあり得るのだとイエスは言うのである。神に遣わされて、奴隷の形を取ることがあり得るのである。そこでは、遣わされて、遣わしたお方に従っているということにおいて、神としての働きをなし、見え方は奴隷であるということである。従って、弟子たちが足を洗うというひな型に内実を入れるのは、イエスが彼らに奴隷として仕えた出来事を受け取って、自らも奴隷として仕えることを通してである。

普通の奴隷は、奴隷であるがゆえに、仕方なく行うであろう。これは形だけの内実のない行為である。神の奴隷は、神が与えたひな型において、神がなさせ給うとの内実に従って、ひな型を生きる。こうして、奴隷の仕事であろうとも神の仕事として生きることが可能となるのである。端から見れば、やっていることは同じである。どちらも奴隷の仕事をしている。しかし、身分的奴隷として仕方なく生きるのと、神の奴隷として引き受けて生きるのとではまったく違ってくるのである。イエスは、弟子たちに引き受けて生きることを求めているのだ。それゆえに、こう言うのである。「もし、これらのことをあなたがたが知ってしまっているならば、あなたがたは幸いな者たちである。もし、あなたがたがそれらを行うならば。」と。「これらのこと」とは、イエスが彼らになした業である。奴隷の仕事を引き受けてくださったイエスの業、イエスの生涯の業、これらのことを弟子たちが知ってしまっているならば、彼らは幸いなのである。イエスが行ったひな型の意味を知ってしまっているならば、彼らは幸いなのである。

「幸い」マカリオスとは、祝福されていることである。つまりは、神が祝福しておられる中に入っていることである。そのとき、彼らは祝福を受けて、奴隷の仕事をなしているであろう。神が遣わし、神が与えた職務としてなしているであろう。そのとき、彼らは幸いであり、祝福されている。そのような生き方を、イエスはひな型として弟子たちに与えたのである。このひな型は、十字架の型である。すべての人間の救いのために仕える型である。奴隷のように仕える型である。奴隷のような型でありながら、神の型である。このキリストのひな型に従い、内実を入れるということは、自分を捨て、自分の十字架を取ることである。自分を捨て、自分の十字架を取る生き方は、キリストの生き方である。従って、弟子たちが足を洗うという奴隷のひな型に従うとき、彼らはキリストを生きることになるのだ。そして、キリストが彼らの中で生きることになるのだ。使徒パウロが言う如く、「生きるとはキリスト」(フィリピ1:21)であり、自らのうちに「キリストを形作る」(ガラテヤ4:19)ことなのである。「キリストがわたしのうちに生きている」(ガラテヤ2:20)という出来事は、今日キリストが弟子たちに与えたひな型に従うとき、生じるのである。キリストが与え給うたという恵みとして、奴隷の仕事をなすとき、如何なることも神の恵みの下に善きものとなっていくのである。

弟子たちが遣わされた者として生きるならば、彼らは奴隷の仕事であろうとも喜びなしていくであろう。彼らは、キリストが足を洗った存在として、キリストが関わりを持ってくださる中で生きているからである。キリストがその人の主として生きてくださっているからである。キリストがひな型として生きてくださっているからである。ひな型であるキリストがその人を型に入れ、キリストの心を受け取らせるからである。

我々は、キリストのようには生きられないと言ってはならない。キリストがわたしのうちで生きてくださるので、わたしはキリストのひな型を生きることができると信じなければならない。キリストは、我々にひな型を与え、ひな型を通して働き給うのだから。キリストのひな型が、我々をキリスト者にするのである。ひな型を生きるとき、我々はキリスト者として形作られていく。このひな型を、キリストは弟子たちに与え給うた。最後の晩餐の席で、与え給うた。このように生きなさいと与え給うた。ひな型に、キリストの心が宿っている。奴隷の仕事にキリストの心が宿っている。奴隷となり給うたキリストの型が、十字架の型。仕え給う神が十字架の神。汚れを清め給う神が、汚れを身に受ける神。このお方によって、我々はキリストのように生きることが可能となるのである。神の意志に従うことが可能となるのである。如何なる罪人であろうとも、可能となるのである。キリストが、十字架の上で、わたしの足を洗ってくださったのだと受け取る罪人は、キリストの型を生きる者とされる。キリストが、十字架の上で、わたしの罪を担ってくださったと受け取る罪人のうちで、キリストは生きてくださる。

今日、共にいただく聖餐は、最後の晩餐を思い起こす聖餐。わたしの足を洗い給うたお方を思い起こす聖餐。わたしのうちで生きてくださるお方を受ける聖餐。あなたのうちで、生きたいと願っておられるお方を受け入れよう。キリストよ、わたしのうちでひな型となり、生きてくださいと、祈りながら。あなたのために、あなたに関わりを持ってくださるキリストの体と血によって、あなたのうちにキリストが生きてくださる。自らの罪の深さにも関わらず、キリストが生きてくださる神殿とされているわたしを感謝して生きていこう。十字架の主に従って。

祈ります。

Comments are closed.