「引き渡しの完了」

ヨハネによる福音書19章17節~30節

 「それで、酢いぶどう酒を彼が取ったとき、イエスは言った。『完了してしまっている。』そして、頭を垂れて、霊を引き渡した。」と記されている。イエスは、死において、引き渡しを完了してしまっているのである。「引き渡した」のはユダではないのか。いや、神ではないのか。イエスを十字架の死に引き渡したのは神ではないのか。それなのに、イエスは「霊を引き渡した」と記されるのはどうしてなのか。神がイエスを十字架の死に引き渡したはずなのに、最後にはイエスが「霊を引き渡した」のである。ここにおいて、「引き渡し」が完了したのだ。神が引き渡した死を死んで、イエスは死、すなわち霊の引き渡しを完了した。イエスが引き渡したイエスの霊はどこから来たのか。どこへ行ったのか。神から来て、神へ行ったのであろうか。イエスが人間であるならば、霊の引き渡しは神に引き渡されるのは当然である。しかし、イエスが神であるならば、どこから霊が来て、どこへ引き渡されるのだろう。

イエスは、人間としての霊の引き渡しを完了したのである。人間として、神に霊を引き渡した。ここにおいて、イエスは真実に人間である。十字架においてイエスは人間である。人間としての死を死んだのだ。このお方が神である。人間としての死を死ぬ神である。これは、どう考えるべきなのか。イエスは神なのか、人間なのか。神が人間として死ぬことが如何なることなのか。人間ではない神が人間として霊を引き渡す。ここにおいて、イエスは真実なる人間としての引き渡しを完了した。この完了において、イエスは人間の生涯のすべてを生きたのである。誕生から死に至るすべてを生きた。神が人間としての全体性を生きたのである。イエスが死を経験しなければ、人間として生きたとは言えない。イエスは人間として生き、人間として死んだ。この死を通して、人間と同じ者となられた。人間として死ぬ、霊の引き渡しを完了して、イエスは完全に人間として生きたのだ。

人間として生きたイエスが、神として人間の死を克服する。死の恐れを克服する。これがイエスの十字架の死。これがイエスの使命。これがイエスの命。死ぬことによって、死を滅ぼすイエスの命。死において、生きるイエスの命。友のために置かれた命。友のために死ぬ命。友のために生きる命。我々が生きるのは、このイエスの命である。十字架の死を生きる命である。十字架の死における命を生きるのがキリスト者である。

キリストが十字架の上で、完了した引き渡しは、神のものとして、我々に与えられるキリストの霊である。使徒パウロがローマの信徒への手紙8章9節で言う如く、「キリストの霊を持たない者は、彼のものではない」のだ。キリストの霊は、神に引き渡され、神から我々に与えられる。従って、我々はキリストが十字架の上で引き渡した霊をいただいているのだ。「キリストがわたしのうちに生きている」(ガラテヤ2:20)とは、キリストの霊がわたしに与えられているということである。キリストの霊が与えられているのだから、「生きているのはわたしではなく、キリストである」(ガラテヤ2:20)。十字架で引き渡しを完了したキリストがわたしのうちに生きている。わたしを生きている。キリストが生きているわたしを、わたしは生きるのだ。

引き渡しの完了において、人間的なものはすべて死んだ。十字架の上で死んだ。我々キリスト者は、キリストの葬り去った罪の体から解放され、キリストとして生きていくのである。人間的な罪のすべてが死んだ。イエスの引き渡しの完了において、人間のすべてが死んだのだ。そうであれば、死んだ者としての自覚がどこで、我々に生じるのであろうか。キリストの十字架においてである。キリストの霊をいただいた者は、キリストの十字架の死を自らの死として受け取るのである。自らの罪の死として受け取るのである。あなたは、あの十字架の上で、イエスと共に死んだ。イエスと共に死んだ二人の罪人同様に、イエスと共に死んだ。わたしの人間的なものがすべて十字架で死んだのだ。それゆえに、十字架の上から、イエスは母に言う。「見なさい、あなたの息子。」と。愛する弟子にイエスは言う。「見なさい、あなたの母。」と。人間的な血のつながりは解かれ、自由に母、息子として生きることが可能となっている。これがキリスト者である。キリストが結ぶことにおいて、血のつながりを越えて、母と子として生きることが可能となるのである。イエスが死んだ十字架の死は、人間的なものをすべて葬り去った。そして、神的なものが新たに生じた。使徒パウロが言う通り、「キリストのうちにあるなら、質的に新しい創造」(2コリント5:17)なのである。新しい創造を、イエスは十字架の上で完了した。引き渡しの完了において、新しい創造が始まったのだ。

我々が十字架を自らの十字架として生きるならば、キリストがわたしのうちで生きる。わたしはキリストのうちで生きる。こうして、新しい創造が我々の上に起こるのである。従って、我々はキリストの十字架において、すべてが完了した生を生きるのだ。十字架を受け取る者は、完了した生を生きるのだ。キリストが完了してくださった生を生きるのだ。もはや、我々は自ら完了させようとしなくとも良い。キリストが完了してくださったのだ。霊の引き渡しにおいて、完了してくださった人間的なものの死。この死を通して、我々は新たに創造される。創造される生を生きていく。

創造は継続されるものである。創造の中に生きることで、我々は自由になる。すでに完了されている人間的な生ではなく、新たな生を、創造されながら生きていくのである。この創造に生きる者の中で、キリストが内的人間として日々新たに生きてくださる。我々は、もはや過去に捕らわれる必要はない。過去は過ぎ去った。過去は十字架の上に死んだ。罪に堕ちた過去が十字架の上で死んだのだ。

罪人は十字架の上で死んだ。罪人としてのイエスが死んだ。すべての罪人が死んだ。罪人の死を死ぬイエスが、すべてを完了している。完了している引き渡しにおいて、罪人は引き渡されている、神に。神に引き渡されたのは、イエスの霊であるが、また我々罪人の霊でもある。イエスが罪人として、人間として死んだからである。従って、我々はイエスの十字架において神に引き渡された罪人なのである。

我々は神に引き渡されて、神のものとして、新たに生きるのだ。あなたの罪が如何に大きくとも、あなたは神のものとして生きるのだ。あなたが何もできないとしても、あなたは神のものなのだ。あなたが如何に地位があろうとも、あなたは神のものなのだ。財産がなくとも、あなたそのものが神のものなのだ。我々は、十字架の上で裸で死んだお方と同じように、裸で神に引き渡されたからである。裸のわたしが十字架の上でイエスと共に死んだ。裸のままに死んだ。何も持たず、何も自分のものとすることができず、ただイエスとして、イエス自身を死んだお方と同じように、あなたは何者でもないのだ。裸のあなたが十字架で死に、イエスと共に生きる、神のものとして。

完了してしまっている十字架が、あなたを新たに創造する。キリスト者として創造する。キリストが生きる神殿として創造する。キリストの十字架を誉め讃えよう。我々人間にできないことを成し遂げられたイエスの十字架に感謝しよう。新たに創造されるわたしを生きていこう。キリストと共に、神のものとして。

イエスの死を自らの死として生きていこう。あなたは死んだ、イエスと共に。あなたの全生涯が十字架に架けられている。あなたが新しい創造として生きるために、十字架に死んだイエスを仰いで生きよう。我々は、キリストのもの、神のもの。神がすべてにおいて、すべてとなるときまで、キリストに従って生きて行こう。完了してしまっている人間的なものを捨てて、朽ちてしまう人間的なものを脱ぎ捨てて、キリストの霊に満たされて。

祈ります。

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