「見るであろう」

マルコによる福音書16章1節~8節

 「しかし、行って、あなたがたは言いなさい、彼の弟子たちとペトロに。彼は、あなたがたを先立ち導く、ガリラヤへ。そこで、彼を、あなたがたは見るであろう。ちょうど、彼があなたがたに言った通りに。」と若者は言う。ガリラヤへ先立ち導くイエスを語り、そこであなたがたは彼を見るであろう、と言うのである。「見る」とは視覚的に見ることであろうか。「見る」主体はいったい誰なのか。あなたがたが「見る」と言われているのだから、弟子たちが主体的に「見る」のか。言葉の上ではそうである。しかし、「先立ち導く」のはイエスである。ガリラヤという場所に導くのか。ガリラヤに何があるのか。ガリラヤに行かなければ「見る」ことはないのか。いや、先立ち導くイエスがおられるがゆえに、「見る」ことが起こるであろうと言われているのである。先立ち導くイエスに従ってこそ、彼らは「見るであろう」と言われているのだ。

「見る」という行為は、認識の行為である。視覚的に認識しても、見ていないということがある。自覚的に「見ている」と認識したときに、我々は「見る」と言う。従って、「見るであろう」とは、彼らが自覚的に「見る」ことが起こるであろうということである。

では、墓で女たちがイエスの体を見ないということは、彼女たちが自覚的に見ていないからであろうか。いや、視覚的に見ようとしているからである。彼女たちは、イエスというお方を狭い墓の中に置かれている存在として探しているからである。イエスの体を探しているからである。イエスを探しているのではない。イエスの体を探しているのだ。生きているイエスではなく、死んで、体だけになったイエスを探している。それまで、話していたイエス、教えていたイエス、癒していたイエスはもはやいないものとして、探しているのである。死とはそういうものだと慣習が教えている。もはや、話さない。もはや、教えない。もはや、癒さない。もはや、問いかけない。いや、イエスはここで彼女たちに問いかけているのだ。彼女たちが探しているイエスの体がイエスなのかと。イエスの体は、イエスではない。イエスの体を生きているお方がイエスである。しかし、体も見ることができない。それゆえに、女たちは途方に暮れる。彼女たちは、どこに探せば良いのかと途方に暮れる。どこに。いや、何を探せば良いのか。

若者は言う。「十字架に架けられたナザレのイエスをあなたがたは探している。彼は起こされた。ここにはいない。見よ、彼らが彼を置いた場所。」と。十字架に架けられたナザレのイエスを探しても、見ることはできないのだ。彼は起こされた。起こされたということは、イエスの体もイエス自身も起こされたのである。それゆえに、彼らが彼を置いた場所を見ても、彼はいない。何故なら、イエス自身は場所に留まるお方ではないからである。マルコは、これまでも「出ていくお方」としてのイエスを語ってきた。誰かがそこにイエスを留めようとしても、イエスは出ていったのだ。そのようなお方が、彼らが置いた場所に留まることはない。イエスは出ていくのだから。墓に置かれていると思っている女たちは、イエスを墓に留めている。しかし、イエスは出ていく。人間が規定し、人間が押し込めてしまう場所から出ていく。生きているとは、広がることである。生きているとは、可能性を生きることである。生きているとは、どこかに留まることではない。それゆえに、若者は言ったのだ。「彼は先立ち導く」と。「ここにはいない」と。

我々は、イエスというお方を型にはめて、このようなお方であると思い込む。しかし、イエスは我々がはめ込んだ型を破る。女たちが恐れるのは当然である。彼女たちは、まったくつかみ所のない状態に置かれたからである。我々は、何もつかめない状態に置かれると不安に陥る。そして、恐れる。いったい、わたしはどうしたら良いのか分からなくなる。しかし、それこそが実は生きているということなのだ。生きているとは、つかみ所のないことなのである。イエスが、墓に置かれていないのは当然である。イエスはイエスとして生きているからである。十字架に架けられることを生き、墓に置かれることを生きた。そして、そこに留まることはなかった。十字架の上に留まることはない。墓の中に留まることはない。人間が置いたことに拘束されない。むしろ、イエスは、我々を広いところに導き行くのだ。我々が押し込めている型を破って、先立ち導くのだ。

我々は、このお方に従う。イエスに従う。今までも、女たちはイエスに従って来た。それなのに、イエスの広げた世界に生きていなかったのだ。イエスに従うことで、広げられた世界があったはずである。それなのに、ここでは、墓にイエスを探す。イエスの体を探す。狭められた世界を、さらに狭めようと探す。これが我々人間の罪の状態である。

我々は、広い世界に生かされている。それなのに、自分で狭い世界を作っている。アダムとエヴァの罪の結果、我々は広い世界であるエデンの園から追放された。狭い世界に追放された。我々が認識できる世界。我々が把握できる世界。我々が支配できる世界に追放された。これが罪の結果であった。神の世界は広いのに、我々は人間の狭い世界を構築して、さらに広げようとしている。狭い世界を広げようとしているのだ。我々は広げているようで、狭めている。我々が支配できるだけの世界に狭めているのだ。これが我々人間の罪の世界。これが我々の狭い世界。神の世界は、我々が捉えようとしても捉えきれない世界。いや、我々の指の隙間からこぼれ落ちていく世界。捉えることができないがゆえに、我々は不安に陥り、恐れる。そして、我々がつかむことができるものを求め、捉えることができるものを探す。しかし、生きている神の世界は、我々にはつかめない。我々が支配することはできない。

イエスが起こされたのは、神の意志である。神の力である。神がイエスを起こした。イエスが墓の中に留まることがないようにと起こされた。これが復活である。生き返ることではない。神が広げることである。あるべき命を広げることである。それゆえに、女たちには捉えられない。捉えられないことこそが、イエスが生きているということなのである。起こされたということなのである。ここにはいないということなのである。

「見るであろう」と若者は言ったが、イエスを「見る」だけであって、弟子たちはイエスを捉えることはできない。彼らがイエスに先立ち導かれることを生きるとき、彼らは「見るであろう」、イエスを、と若者は言ったのだ。しかし、「見た」ことを固定してはならない。留めてはならない。そうすれば、イエスは彼らの指の隙間からするりと脱け出してしまうであろう。そして、彼らはイエスを知ることはないであろう。

我々は、先立ち導くイエスに従い、イエスを「見るであろう」。しかし、イエスは常に先立ち導く。一つところに留まらず、先立ち導くであろう。我々が、我々自身として生きるために、先立ち導くであろう。「見るであろう」未来は、常に未来なのだから。「見るであろう」ことに向かって、歩み続けることが、生きているということなのだから。

神に起こされたイエスは、我々が「見るであろう」お方。常にご自身を見せ給うであろうお方。我々が主体ではなく、イエスが見せ給うがゆえに、我々は「見るであろう」ことを生きる。未来を生きる。未来に向かって生きる。「見るであろう」ことを見るために。そのとき、我々は、イエスと共に生きるのだ。イエスを「見るであろう」ことに向かって、イエスと共に生きる。先立ち導くイエスに従って、生きる。広い世界に生きる。把握できない世界に生きる。留まらず生きる。これこそが、イエスの復活によって、起こされる我々の復活なのである。

今日いただく聖餐は、我々がイエスを「見るであろう」未来に向かって、歩ませる神の力。イエスの体と血に与って、雄々しく歩みだそう、未来に向かって。「見るであろう」イエスを求めて。先立ち導き給うお方が、あなたのうちで生きて働いてくださるのだから。

祈ります。

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