「現れ」

マルコによる福音書16章9節~18節

 「週の初めの日の朝早く、彼は見られた、まずマグダラのマリアに」と「これらの後、彼らの内の歩いている二人に、彼は明示した、別の形において、田舎の方へ歩いている者たちに。」と二つの言い方がなされている。イエスの復活の「現れ」は、「見られる」ことと「明示する」こととして語られている。しかし、どちらも主体はイエスである。「現れ」としての主体はイエスなのである。

復活は、「現れ」を見せる主体があって、見る出来事である。しかし、自分が見なければ信じられない出来事である。ヨハネのイエスが言う如く、「見ないで信じる者は幸い」というようには行かないのが人間である。それゆえに、イエスは他の弟子たちにも「明示した」のである。そうでなければ、彼らはイエスの復活を信じなかったからである。

明示されて初めて受け入れる。これが我々罪人の愚かさである。明示されなければ、他人の言葉では信じられない。自分が見なければ信じられない。そのような人間が神の言を信じることなどできるはずがない。我々は自分が見ること、自分が知ることで、やっと自分のものとして受け取ることができるのである。それゆえに、神の言も自分に語りかけられている言として聞く耳を開かれなければ、聞くことはできないのである。「現れ」は客観的なものではなく、自分との関係における「現れ」でなければ、受け入れることはできないのである。

知識としては、我々も自分自身が見ていなくても、「そういうものなのだ」と考えることはできる。しかし、知識が自分との関わりにあると受け取るには、その知識が自分の状況において活用された場合である。同様に、「現れ」としてはどれも同じであるが、受容するかしないかは、自分との関わりがあるかないかによるのである。そのような罪人であるがゆえに、イエスは弟子たちそれぞれに現れなければならなかったのだ。弟子たちは、自分自身のために、関わってくださるイエスを経験しなければならなかったのだ。

それは、我々も同じである。神が、我々に信仰を与えるとは言っても、与えられた信仰を受け入れることがなければ、信仰は生きて働かない。ルターが言うように、信仰が我々のうちに働く神の活き活きとした働きであるとしても、その経験がなければ受け入れないのが人間なのである。ルター自身は、活き活きとした神の働きであることを経験して、証言しているのである。その言葉を聞いても、我々は「そうなのか」としか聞かない。「へぇ~」と思うだけである。それは、我々が自分のこととして受け取っていないからである。自分が経験していないからである。神の言も同じように、「へ~、そうなんだ。」と聞く場合と、「まさにその通り」と聞く場合とがある。後者の場合は、自分との関わりを受け取っているのである。そう考えてみれば、神との関係を受け取るということが、「現れ」を受け取ることでもある。神がわたしに関わってくださっていると受け取ることが、信仰を与えられるということである。

では、そのように受け取るためには、何が必要なのであろうか。どうしたら、受け取ることができるのであろうか。イエスが弟子たちを叱ったように、「かたくなな心」が我々罪人の心であるならば、これを「柔らかな心」にするのはいったい何なのか。「現れ」が必要なのである。この「現れ」は聖書の中では、ファネローという言が使われる。これは「明らかにする」、「示す」という意味であるから、「明示」である。「明示」がなければ、我々は見ることができない。「明示」がなければ、我々は知ることはできない。信じることもできないのである。「かたくなな心」しか持ち合わせてはいないからである。「現れ」は明示されて、我々のものとなっていく。

では、明示されない人間は、イエスに関わりをもってもらっていないのだろうか。イエスが関わりをもってくださる相手は、イエスが選ぶのだろうか。確かに、イエスの選びがある。しかし、選びは受け取りにおいて、選びとなる。選ばれていても、受け取らなければ、選びとはならない。受け取るという人間の側の問題が横たわっている。それでは、選びは主体であるイエスや神の業ではなく、受け取る人間の業ということになってしまわないだろうか。確かに、そのように思える。「信じる者、そして洗礼を受ける者は救われるであろう。しかし、信じない者は有罪宣告されるであろう。」と言われているからである。結局、人間が信じるか否かという人間側の問題が重要なのであり、神の選びも、神が与える信仰も、人間が選び、受け取るか否かにかかっているのだろうか。そうであれば、救われる人間はどのようにして、選びを受け取るのであろうか。救われない人間は、どうして選びを受け取らないのだろうか。

確かに、「現れ」を見る者は、イエスが主体である中に入る者である。選びを受け取る者も、神が選ぶ選びを受け取る者である。如何にして、イエスという主体の中に入るのか、神が選ぶ選びを受け取るのか。これは、入る者が入り、受け取る者が受け取るとしか言えないのである。何故なら、誰が入るのかは、人間が決められることではないからである。自分が選ばれていると思っている人間は選びを受け取ることができないであろう。むしろ、わたしなど選ばれないと思っている人間が選びを受け取る。わたしが主体であると思っている人間は、イエスが主体である中には入らないであろう。わたしは主体ではないと思っている人間が、イエスの主体の中に入るであろう。そうであれば、「現れ」も選びも、自分を捨てなければ入れないし、受け取れないのである。従って、人間の側の準備によっては、神の出来事を経験することは不可能なのである。それゆえに、どのような人間が選ばれるのか、どのような人間が受け取るのかとは問えないし、言えない。

そうでなければ、信じる者に伴うしるしは、神の業ではなく、人間の業になってしまうであろう。悪霊を追い出すことも、新しい言葉を語ることも、蛇をつかみ、毒を飲んでも害されないことも、病人が癒されることも、すべて神の業であり、人間の業ではない。これらのしるしは、神の業を信頼する者を通して、神が働くしるしなのである。セーメイオン「しるし」とは、本体を指し示すものだからである。すべての業の本体は神であることを指し示すのが、ここで語られている「しるし」セーメイオンなのである。

先立ち導くイエスに従って、「見るであろう」未来は、「現れ」が神の関わりであることを受け取る信仰において、「見るであろう」未来となるのである。神が働き給う世界にあって、罪によって、曇らされている我々が見ることができないものを、見せ給うのは、関わり給う神の「現れ」である。あなたに先立ち導くイエスである。先立ち導くイエスに従って歩み出す信仰を与えられている我々は、「見るであろう」未来を自らに関わり給う神の世界として見るのである。神の支配し給う世界の中で、我々は生かされている自分を見るであろう。我々に「現れ給う」イエスを見るであろう。かたくなな心を持っている罪人である我々に関わり給うイエスを見るであろう。

今日、弟子たちに「現れた」イエスは、ご自身を明示し、弟子たち一人ひとりに関わりをもたれた。我々にも、イエスはご自身を現す。パンとぶどう酒の形で、ご自身を現す。我々が如何にかたくなな心を持っていても、ご自身を現す。我々が、如何に不信仰であったとしても、ご自身を現す。パンとぶどう酒に明示されたイエスご自身が、神の関わりの「現れ」として我々に示される。我々は見捨てられてはいない。我々は神に覚えられている。我々は失われてはいない。我々は神に生かされている。我々は立ち上がれないのではない。我々のうちにキリストが生きておられるのだから。

神の働きのうちに、我々が生きていくために、今日いただく聖餐を感謝して受け取ろう。十字架に架かり、復活してくださったイエスは、あなたのために復活し、現れてくださったのだ。信じる者として、神の力を経験して、あなたが生きていくようにと、あなたに関わりをもってくださったのだから。

祈ります。

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