「見出させる言」

ヨハネによる福音書21章1節~14節

 「その夜のうちに、彼らは何も捕まえなかった。」と言われているのに、「舟の右の部分へ、網を投げなさい。そして、あなたがたは見出すであろう。」とイエスは言う。もちろん、弟子たちはイエスだとは分からないまま、その言葉に従って、網を投げた。すると、「魚の多さから、もはや、彼らがそれを引き上げることができないでいた。」という事態が生じたのである。この後、イエスの愛しておられた弟子が「主がおられる」と言った。これは「主が生きておられる」ということでもある。

彼の弟子がこう言ったのは、弟子たちに言葉をかけたのがイエスだという意味であろうか。それとも、主が生きているという意味だろうか。両者の意味が含まれている。彼がそう言ったのは、どうしてなのか。不思議なことが起こったからであろうか。いや、イエスの言葉が、弟子たちに見出させる言であったからである。彼らは、多くの魚を見出すと共に、イエスを見出したのである。イエスが、彼らに語られたがゆえに、彼らは見出した。イエスの言が、見出させる言として働いている。イエスは言によって、弟子たちに見出させ、見出されるお方。この言は、イエスが生きているということを見出させる。

イエスが語った言が、魚を見出させ、イエスを見出させる。イエスは、ご自分を含めた神の世界を見出させるために、語る。イエスの言は、これまでもそうであったように、ご復活のあとも同じように働く。弟子たちは、イエスの言を聞き、イエスの言に促されて、網を打つ。そして、魚を見出す。彼らは、その夜、何も捕まえることはなかったのだ。それなのに、イエスの言が語られると、魚が見出される。彼ら漁師たちが、イエスの言に素直に従うのも不思議である。イエスだと分からないにもかかわらず、岸辺に立っている誰かの言に従って、網を打つなどということがあるだろうか。イエスだと分かっていれば、弟子たちも素直に従うであろう。しかし、この時点ではイエスだとは分からないのである。どうして、彼らは見知らぬ人の言に従うのか。イエスの言が、弟子たちを捉えたからである。

弟子たちは、イエスだとは分からないが、岸辺に立つ見知らぬ人の言に従った。その言に従って、網を投げた。彼らが素直に見知らぬ人の言に従ったのは、彼らが彼の言に促されたからである。動かされたからである。そのような言が聞こえてきたのだ。弟子たちの耳に。いや、弟子たちの耳ではなく、弟子たちの魂に、聞こえてきたのだ。聞き従わないという選択ができないような言が聞こえてきた。それがイエスの言であった。そして、イエスの言に従って、弟子たちは見出した、多くの魚を。

イエスは聞かせ、見出させる言を語っている。この言はどのような言なのだろうか。見出すとは言え、それまで彼らは舟の右の部分に網を投げてはいなかったのだろうか。いや、どちらにも投げていたはずである。そうであれば、見出すはずはないのだ。それなのに、彼らは見出した。どうしてなのか。イエスの言が彼らに見出させたからである。あるべきものをあるように見出させる言、それがイエスの言である。

あるべきものはあるところある。あるところにあるがゆえに、正しく見るならば認められる。しかし、正しく見ないならば、認められない。あるべきところにあるものがある。あるべきようにある。それが神の布置である。神が置いたものが、神が置いたところにある。これは当然なのである。しかし、我々人間は当然の場所を探しても見出さない。何故なら、我々が見出そうとするからである。我々が、認めようとするからである。我々が見出そうとしても見出せない。何故なら、神が置いたことを認めておらず、神が置いたように見ていないからである。それゆえに、弟子たちはイエスが岸辺に立っていても、イエスだとは分からないのである。神がイエスをそこに置いたのだとは認識していないからである。

弟子たちは、誰かが立っていると思っている。岸辺に立っていると思っている。いや、その人が声をかけなければ、立っていることさえ認識しない。そこに神が置かれたのに、認識さえしないのが人間なのである。にもかかわらず、神が置かれた存在はそこに存在している。ただ、我々人間が認めないだけなのである。魚でさえも、認められない弟子たちなのだから、イエスを認めることができないのは当たり前である。

彼らがイエスの復活顕現に接していないならば、分からないではない。彼らは、イエスの復活顕現に接しているにもかかわらず、岸辺に立つイエスを認識しないのだ。これはどうしたことか。神が望むときに、望む場所に、イエスを置かれるということを、彼らは分かっていないのである。それゆえに、置かれた魚を、置かれたイエスを、認められない。認められないがゆえに、捕まえることもできない。むしろ、神が置かれた存在に、彼らが捕まえられるのである。イエスの言に素直に従ったように。

弟子たちは、魚を捕まえたと思っている。しかし、彼らは捕まえさせられたのである。いや、むしろ、魚に捕まえられたのである。イエスに捕まえられたのである。それゆえに、岸に上がってきた弟子たちに、イエスが魚を与えるのである。弟子たちが、イエスに捉えられているからである。弟子たちは、イエスに捉えられているがゆえに、イエスの言に従った。イエスの言に従って、見出した、魚を、そしてイエスを。これが今日、イエスが現された力である。

イエスの言が、弟子たちに見出させる。魚もイエスも見出させる。弟子たちが認めていなかったものを見出させる。見えるようにしてくださる。イエスの言は、創造の言である。神の創造の言である。神のうちにないものは存在することができない。創造とは、神のうちに可能性として存在するものを、神の言が現すことである。あると示すことである。

無からの創造と言うが、存在としては無であるようにしか思えないものが、あるべきようにある存在として見出されることである。イエスがご自身を現すということも同じである。神があるべきところにあるようにしたイエスを見出すことである。そのためには、見出させる主体が語る言に従う必要があるのだ。何故なら、見出すのは我々ではなく、見出させる言を語る主体だからである。それゆえに、イエスが語ることにおいて、魚だけではなく、イエスご自身も見出されることになったのである。それが、見出させる言である。

イエスは、見出させる言を語った。復活者は、神の創造を見出させる。新たな世界において、見出させる。新たな世界へと見出させる。新たな世界への移行が、イエスの言によって生じた。弟子たちは、イエスの言に捉えられ、イエスの言に従って、見出した。我々人間は、復活者に出会ってもなお、罪の雲に覆われている。それゆえに、弟子たちはイエスを認識できなかった。一度、出会っているにもかかわらず、イエスを認識できなかった。これが我々の罪の問題なのである。それゆえに、イエスは何度も弟子たちに現れ、彼らの認識を開くのである。彼らに神の世界を開くのである。彼らを捉え導くのである、神の支配へ。

イエスの言が語られなければ、罪の闇に沈んでいた弟子たちである。彼らが何も捕まえないのは、彼らの世界が夜だからである。夜の闇に包まれているからである。その闇に、イエスの言が響く。そのとき、彼らはイエスの言に捉えられ、新たな世界へと開かれるのだ。我々も同じように、開かれる。イエスが語る言によって、神の支配し給う世界を見出すようにされるのである。

あるべきものが、あるべきところに、あるべきときにあるということを見出す。それが信仰における世界の開けである。我々は、イエスの言によって開かれる。今日、共にいただく聖餐も、イエスの言が語られなければ、ただのパンとぶどう酒である。「これはわたしの体。これはわたしの血における新しい契約。」とイエスが語るがゆえに、我々はパンとぶどう酒において、イエスを見出すのだ。我々に命を与える世界を見出すのだ。あなたは、新たな世界へと開かれ、新たに生きる力をいただく。感謝して受け、イエスに生きていただこう、わたしのうちに。

祈ります。

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