「わたしに従いなさい」

ヨハネによる福音書21章15節~19節

 「それで、このことを知らせて彼は言った。どのような死で、彼が神を栄化するかを。そして、このことを彼は言った。彼に言って、わたしに従いなさいと。」と言われている。「神を栄化する」とは、神が実らせる実を結ぶことによってであると15章のぶどうの木のたとえで語られていた。また、神の栄化と死とが語られていたのは、ラザロの死の場面においてである。さらに、イエスの死において、イエスの栄化が起こるということも、ヨハネは語っている。神の栄化、イエスの栄化と死との関係は密接である。死が栄化であるということはどういうことであろうか。

イエスの場合、神の意志に従うことによって、神を栄化するのであり、イエスが栄化される死によって、神が栄化される。ここでは、ペトロの死が神の栄化であると言われている。従って、ペトロの死が神の意志に従うことであるということである。ペトロが神の意志に従って死ぬということである。ペトロはどのようにして、そのような死を死ぬのであろうか。それは、イエスの羊を飼うことを通してである。すなわち、信徒たちをイエスの言葉で養うことを通して、ペトロは神の意志に従うのである。それは、最終的には「わたしに従いなさい」と言われるイエスに従うことである。イエスが神の意志に従って死んだと同じように、ペトロも神の意志に従って死ぬ。イエスの羊たちを養いながら死ぬ。それは、彼が自分の意志で行きたいところに行くことではなく、行きたくないところに連れて行かれることであるとイエスは言う。行きたくないところに連れて行かれることを受け入れるとき、イエスに従っていると言うのである。

それにしても、この死の姿は、勇ましい死ではない。情けない死である。自分で赴く死ではなく、連れて行かれる死である。それがイエスに従うことなのだろうか。そうである。イエスは勇ましく死んだのではない。情けなく死んだ。見捨てられ死んだ。連れて行かれて死んだ。無残にも殺された。イエスの殺害が民への見せしめであったのだから、当然である。イエスが勇ましく死ぬところを見せないために、十字架刑が行われたのだ。二度と、イエスのような人間が現れないために、十字架刑という情けない死を与えられたのである。このイエスと同じような情けない死を、ペトロは死ぬのである。これがイエスに従うことであると。

そうであれば、我々すべての人間の死が情けない死ではないか。年老いて、自分で歩くことができず、誰かに連れて行かれるようになる。そうして、情けない姿をさらしながら、死を死ぬのである。イエスに従う究極的姿が、情けない死であるならば、我々は誰ひとりとして、漏れる者はいない。やり残したことに後ろ髪を引かれながら死ぬ。思い通りに行かないことを抱えながら死ぬ。死を与えられて死ぬ。自分が死を選ぶことができない。そのような我々人間の死が、神を栄化するのであろうか。そのような死が、神の輝かしさを語るのであろうか。

確かに、「我々が輝く死」ではなく、「我々が暗くなる死」は、我々を栄化することはない。人間とは情けない存在であることを証する。人間とは儚い存在であると語る。そのような死を通して、我々人間が神を輝かせるのであろうか。むしろ、誰も死に得ないような素晴らしい死を通して、そのように死ぬ力を与えた神が輝くのではないのか。いや、そうではないのだ。人間は死を通しても、自分を輝かせてしまうのである。

神を栄化するということは、人間が自分を輝かせることではない。どんなに素晴らしい死を死んでも、神を栄化することはできない。むしろ、人間の情けなさを証す死を通してこそ、神を輝かせるのである。人間の哀れさを通して、神を栄化するのである。それでは、誰でも死を通して、神を栄化することができるのか。いや、神を栄化するのは、神に従う者のみである。イエスに従う者のみである。何故なら、神に従っていなければ、我々は自分を栄化しようと躍起になるからである。死を前にしても、自分の栄化を求めてしまうからである。情けない死を恥だと思ってしまうからである。情けない死を引き受けようとはしないからである。それゆえに、イエスはペトロに問うのだ。「わたしを愛しているか」と。

「わたしを愛しているか」と問うイエスは、情けない死を死んだわたしを愛しているかと問うているのである。素晴らしい死を死んだわたしではなく、情けない十字架の死を遂げた「わたしを愛しているか」とイエスは聞くのである。誰でも、英雄的な死を死んだ人を誇りに思うものである。そして、英雄は神に祭りあげられる。しかし、イエスは英雄ではない。誰も神に祭りあげることはない死を死んだ。そうであれば、イエスを神に祭りあげる者などいないのだ。弟子たちの間にも。それゆえに、イエスは神である。神であるから、神なのであり、神に祭りあげられたのではない。その神が、情けない死を死んだ。人間の情けない死が、神の栄化であると死んだ。英雄的死ではない。そんなイエスを愛するかとペトロに問う。「愛している」と答えるペトロは、イエスが求める愛ほどには至れないであろう自分を知りながらも、必死で答えている、「あなたを愛しています」と。

情けない十字架の死を死んだイエスを愛する者は、イエスの羊を飼う。イエスの羊にイエスの言葉を食べさせるのだと、イエスはペトロに命じる。そして、情けない死を死ぬことが神の栄化であると語る。ここにおいて、イエスは自らの死と同じ死、評価されない死、情けない死を通して、「わたしに従いなさい」とペトロに語るのである。誰もが死ぬことができる死。英雄では死ねない死。普通の人間が死ぬ死。この死は、誰でも死ぬことができるが、すべての人間が神を栄化するわけではない。神に従った者が神を栄化するのである。そうでなければ、神に従って、情けなく死んだとは誰にも分からないからである。神に従っている存在が、誉め讃えられない死を死ぬ。神を信じているのであれば、救ってもらえば良いのに、蔑まれる死を死ぬ。神に従っているのであれば、もっと素晴らしい死を死なせてもらえば、皆が神に従うだろうにと、誰もが忌む死を死ぬ。そのような死が、どうして神を証するであろうか。どうして、神を栄化するであろうかと思える。しかし、神を栄化するのである。彼が神に従っていたからである。イエスの羊を養っていたからである。イエスの言葉を食べさせていたからである。それが知られていることで、情けない死が神の栄化となるのである。

イエスも神の言葉を宣教した。神の意志を宣教した。宣教した神の意志に従って生きた。最後には、十字架の上で、引き渡し完了の叫びを叫び、霊を引き渡した、神に。こうして、死んだお方が神を栄化したのである。同じように、ペトロも我々も、神に霊を引き渡して、完了する、神の栄化を。神に栄光を帰すということは、自分を輝かせることではない。神の言を信じ、神の言を宣教し、神の意志に従い、情けなく死ぬことによって、我々は神を栄化する。最後は、我々は誉め讃えられない。誉め讃えられず、蔑まれて死ぬが、神を栄化するがゆえに、我々の死は神の意志である。神の意志がわたしの上になったのである。誰も求めない、探さない死。狭き門としての死。しかし、誰もが与えられる死。ただ、神の意志として引き受けて死を生きるとき、我々は神を栄化するのである。誉め讃えられない死を、引き受ける勇気こそ、イエスの力である。十字架の言、神の力である。我々が、このような死を恐れずに生きていくために、イエスは語ってくださるのだ。今日、ペトロに語りかけたように。ペトロに問うたように。「わたしを愛するか」と。

我々が十字架の主を愛するのは、勇ましいからではない。素晴らしい死だからでもない。ただ、イエスが神の意志に従い、神の意志として死を引き受け、生きられたからである。このお方の言が、あなたのうちに生きて働く神の言である。如何なるときも、如何なる状況も、引き受けて行く力をくださる神の言である。キリストの言があなたのうちに働いて、神の意志に従う力をくださるように。

祈ります。

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