「語りの内在」

ヨハネによる福音書15章1節~10節

 「もし、あなたがたがわたしのうちに留まっており、そしてわたしの語った言があなたがたのうちに留まっていたら、あなたがたが意志することを願いなさい。そして、それはあなたがたに生じるであろう。」とイエスは言う。「つながっている」と訳されている言葉は、「留まる」「住む」という意味である。イエスのうちに住んでいるならば、イエスの語りがその人のうちに住んでいるというのである。イエスのうちに住む、イエスのうちに留まるときには、イエスの語りがその人のうちに住んでいる。語りが住む、あるいは語りが留まるとは、どのような状態なのだろうか。

住んでいるということは、生活していることである。イエスのうちに生活しているということは、イエスが生活の基準だということである。イエスというお方が生きている空間の中で生活することである。イエスが生きている空間での生活は、イエスが基準なのだから、イエスが語ることが我々の生きる道を示すということである。しかし、イエスが語っている言は、「語り」において生きている。たとえ、現代の我々が、イエスの語りを「文字」で読むとしても、「文字」を読む我々が「語り」として読み、聞くのである。目で見ても、耳で聞いても、それだけでは「語り」ではない。我々が「語り」によって、開かれるように聞かないならば、それは「語り」とは言えない。いや、イエスの語りとは言えないのである。

イエスが我々に語るのは、意志を伝えることではあるが、我々がイエスの意志を理解したとしても、我々が理解にとどまっている限り、「語られた言」ではない。「語る」ということは、開くことだからである。イエスが語っているから「語られた言」なのではあるが、我々が「イエスの語り」によって、今までの自分を手放し、何も持たない者として生きるとき、イエスが語っている状態にあると言える。何故なら、イエスは我々を解放したいからである。我々を解放するために、イエスは語っているのだから。ヨハネ福音書8章31節以降で、「わたしのロゴスのうちにあなたがたが住んでいたならば、真実に、あなたがたはわたしの弟子である。そして、あなたがたは真理を認識するであろう。そして、真理はあなたがたを自由にするであろう」とイエスが語っている通りである。

真理であるイエスのロゴスは、我々を自由にするのであり、解放するのである。我々が捕らわれているところから解放されるとき、我々は開かれるのである。今までの捕らわれにおいて、閉じられていた世界が開かれる。イエスが語っている言によって開かれた世界が閉じられることなく、開かれ続けていく。イエスの語りが我々のうちに内在するならば、我々は捕らわれを常に手放して、開かれていくであろう。

しかし、実を結ぶことは成果を意味しているのではないのか。成果であれば、開かれることではなく、積み上げていくことになりはしないだろうか。「実を結ぶ」という言葉は、ギリシア語で「実をもたらす」である。この実はどこにもたらされるのであろうか。他者にもたらされるのが実である。自分に実をもたらす者はいない。まして、ブドウの木や枝が自分のために実をもたらすなどということはない。誰かが食べるために、実をもたらす。次なる木が芽生えるために、実をもたらす。自分が生きるために実をもたらす自然などないのだ。自然界は他者志向的に生きているのである。そうであれば、イエスが語っていることは、他者に向かうことである。他者に実をもたらさないならば、その人は枯れているも同然なのだから、外に投げ捨てられるのだ。

実をもたらすということは、成果ではない。実をもたらすという動きである。語りも動きである。語っているという状態は、静止していることではないのだ。従って、語りを聞いている存在は、常に静止することなく動かされている。それゆえに、捕らわれることなく、開かれている。そして、自分を捨てている。捨てているゆえに、他者に向かって、何かを与えている。与えているという状態が、実をもたらすということである。自分を捨てているという在り方によって、我々は自由である。与えた結果を求めないからである。与えた結果を求める者は、結果に縛られているがゆえに、自由ではない。自由に与え、自由に捨てることができない人間の罪に支配されているのである。

罪は結果を求める。罪は結果や目的をもって生きる。結果や目的に捕らわれることなく生きるとき、我々は自由なのだ。この自由をもたらすのが、真理であり、イエスのロゴスであり、イエスの語りである。イエスの語りを聞き続け、自らが問われている状態に住み続けるならば、我々はどこかに静止することはない。動き続け、わたしがあるところからわたしがあるであろうところへと移行し続けるであろう。そのとき、我々は自由である。そして、イエスの愛のうちに住んでいるのである。

イエスは愛を語り続けている。究極的な愛を語り続けている。十字架の上から語り続けている。十字架における愛がイエスの愛である。弟子たちを愛した愛である。十字架の上で、イエスは父の愛のうちに住んでいる。それゆえに、イエスは十字架の上で死んでいるが生きている。実をもたらし続けている。十字架の言が語り続けているからである。イエスの十字架の言を聞き続ける者のうちに、イエスの語りが住み、その人を開き続ける。

語りを聞くということは、語り続けるイエスの問いに身を委ねることである。イエスから問い掛けられた言の力に身を委ねることである。問いを生きることである。問いを生きるとき、我々は答えに至るのではなく、次なる問いに導かれる。導かれた問いは、問いである以上、如何なる方向にも行けるものである。如何なる方向にも行くことができるということは、定まった答えがないということである。一人ひとりが自ら考え、取り組み続けることが可能な問いである。答えが問いを導くのだから、どこにも行き着くことがないということである。従って、静止することはない。実をもたらし続けるのである。実が次なる実の種として生きるのである。こうして、我々は、如何なる場所にも静止することなく、生きていく者とされる。これがキリスト者なのである。

キリスト者は、イエスの語りをうちに生きる存在である。イエスのうちに生き、イエスがうちに生きる相互内在を生きるのがキリスト者である。イエスの語りを聞くということは、相互内在に生きることである。従って、我々はどこにでも赴くことができる。どこにでも赴くということは、どこかに静止したままではいないのであり、開かれているのである。イエスが語ることによって、我々は静止することはできなくされる。イエスの語りが、わたしのうちに生きているならば、わたしは生きている。「わたしがあるところのわたしがある」と言われた神ヤーウェの生成する在り方が、わたしがあるところで生き、わたしがあるであろうところで生きることである。ヤーウェが形なきお方であるということは、そのようなことなのである。ヤーウェは、地上にある如何なる形も作ってはならないとおっしゃった。我々がヤーウェの語りによって、生成され、問われ、自らに問わされる出来事を生きるようにとおっしゃった。この生を生きたのが十字架のキリストなのである。従って、キリストは人間に規定された死に固定化されることなく、復活したのである。

このお方の体と血に与る聖餐において、我々は十字架に死んだキリストの生に参与する。キリストがわたしのうちに生きてくださる。我々は、失われることなく、如何なるとき、如何なるところにも生きることができる、キリストによって。十字架のキリストによって、自らの罪を問われた者として、開かれて生きることが可能となるのである。

我々がキリストの死を宣教する聖餐は、我々を開いてくださるキリストの語りの内在である。十字架から聞こえてくるキリストの語りの内在である。感謝して受け、生きていただこう、十字架のキリストに。わたしのうちで語り続けていただこう、十字架の言を。我々が開かれて生きて行くために。

祈ります。

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