「イエスの魂」

ヨハネによる福音書15章11節~17節

 「このような大きな愛を、誰も持っていない。誰かが、彼の魂を置くという、彼の友のために。」とイエスは言う。「自分の命を捨てる」と訳されている言葉は、「彼の魂を置く」である。「命」と訳されている言葉は、ギリシア語でプシュケーであり、その人自身を表す「魂」のことである。「魂を置く」とは「命を捨てる」ことではあるが、単に「命を捨てる」と訳すと、その意味合いは生命の放棄のように思える。しかし、「魂を置く」とは、生命を放棄することではなく、その人自身を神の前に置くということなのである。置かれたイエスの魂を神が用いる。それゆえに、置かれたイエスの魂は、友のために用いられる魂となる。

イエスの魂を用いられる「友」とは、イエスが「友」と言う存在である。自分から「友」となろうとしてもなれるものではないのだ。イエスが「友」と言う存在は、イエスが言うことにおいて「友」として規定される。そのような「友」には自分からなるなどということは起こりえないのである。イエスに「わたしを友と言ってください」と願っても、イエスが「あなたを『友』と言う」と言わなければ「友」ではないのだ。イエスが言うことに従って、「友」として生きることが、彼の弟子たちに求められていることである。

この在り方は、「互いに愛する」ことにおいても同じである。弟子たちが「互いに愛する」のは、イエスが愛したことに基づいて「互いに愛する」のである。それゆえに、イエスがわたしを愛してくださったのだと受け取る存在が、「互いに愛する」者とされていくのである。「友」も「イエスが彼の魂をわたしのために置いてくださった」と受け取ることにおいて、イエスから「友」と言われる存在として生きるのである。

イエスが「彼の魂を置いた」のは、このわたしのためであると受け取ることは、如何にして生じるのであろうか。罪深い人間であるこのわたしのために、イエスがご自分の魂を神の前に置いたのだと受け取るのは、罪を自覚している存在である。その人は、自らがイエスの魂に値するとは思わない。それで、値しないわたしのために、何故にイエスはご自身の魂を置いたのだろうかと問うことになる。問いつつも、その理由が、自分の側には見いだせない。それゆえに、ただイエスの言に信頼するように導かれる。こうして、自分自身がイエスの魂に値する理由を見いだせないままに、理由がなくともイエスの言に信頼するようにされる。そこにおいて、我々には信仰が与えられるのである。

イエスに「友」と言っていただく資格があるなどと思い上がる存在は、イエスの魂を受け取ることはない。資格などないと認める存在が、イエスの魂を受け取るのである、感謝して。その感謝において、その人は選びを生きている。イエスに選ばれることを生きているのである。イエスがわたしを選ぶ理由はない。にもかかわらず、イエスがわたしを「友」と言ってくださる。それは恵み以外の何ものでもない。恵みは、いただく資格などないと認めている存在には、恵みである。いただく資格があると自負している存在には、恵みは恵みではなく、当然の報酬である。当然の報酬であれば、感謝も生まれない。それゆえに、イエスが「友」と言うことに規定されない。その人は「友」と言われなくとも良いと思うからである。こうして、その人はイエスから離れてしまう。いや、最初から離れている。離れて、選ばれていないことを生きている。自らに自負がある人間は、イエスの友であることを受け取らないというよりも、イエスが友と呼ぶことはないであろう。何故なら、そのような人はイエスの魂の重さを受け取らないからである。

こうして、イエスの魂に相応しい人間は一人もいないことになる。自ら相応しくないと思う人間は相応しくない。自ら相応しいと思う人間も相応しくない。すべての人間が相応しくない中で、イエスの魂を受け取ることが可能な人間が、イエスの魂の重さを思う人間である。相応しくない人間が相応しいというわけではない。相応しくないのであることを認めているのだから、相応しくないのである。相応しさという基準は相応しくない。むしろ、相応しさという基準を覆すために、イエスは魂を置いたのだ。相応しさを超える基準がイエスの魂の重さである。イエスの魂の重さを認めるという存在が受け取るようにとイエスは自らの魂を置いたのだ。

イエスの魂の重さは、重さを計ることができるものではないという重さである。計りえない重さがイエスの魂である。この世のすべての魂の重さを超えているからである。計り得ない重さを認めるのは、自らが計り得ない罪を犯していることを認めている者である。計り得ないという基準を認めている者である。そのような者は、イエスの魂の前で、自らの資格も重さもマイナスでしかないことを認めているのである。つまり、資格や重さがゼロであるのではなく、マイナスであり、使うことさえできないことを認めているのである。そのような存在は、使い得ない基準を放棄せざるを得ない。放棄して、神の前に何も持ちえないことを認めている。それゆえに、神からの恵みはその人を覆うのである。ゼロであると思う人間は、それでも何ものかを自らに付け加えようと思うであろう。マイナスである人間は、自らが付け加えるものはマイナスでしかないと思うであろう。それゆえに、付け加えることを放棄せざるを得ない。放棄することにおいて、自らを捨てている。捨てているのだから、自らに期待できない。自分を捨てるとはそのようなことである。

このとき、我々は価値のなさではなく、マイナスを造り出してしまう自らを認めているのである。罪を認めるということは、わたしがなすことはすべて罪であると認めることなのである。わたしが行うことはすべて罪であると認めている人間は、自分を正しく認めている。何故なら、聖書がそう語っているからである。創世記8章21節においてこう言われているからである。「人間の心は悪を形作る、幼きときから。」と。神ヤーウェがそう認めている存在を、赦し給うのは、ただ憐れみのゆえである。イエスが魂を置くのも、憐れみのゆえである。罪を犯さざるを得ない存在を憐れむがゆえに、イエスはご自分の魂を置くのである。この憐れみを受け取るのは、神が憐れむ者を憐れむ憐れみを受け取るのであり、憐れまれない者を憐れむべき者と言うからである。ホセア書2章25節でヤーウェが言うとおりである。「わたしは彼女を地に蒔き、ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ、ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって、「あなたはアンミ(わが民)」と言う。彼は、「わが神よ」と言う。」と。これが、イエスの「友」と言われる重さを持たず、マイナスである者を「友」と言うイエスの意志である。

弟子たちは、このイエスの魂を受け取るのであるから、自らはマイナスな存在、罪を増し加える存在として認識している。使徒パウロが言う如く、「罪が増加したところで、恵みは溢れだした。」のである。イエスの魂は、罪というマイナスをゼロにするのではなく、ゼロを超え溢れさせるのである。このような超過的力を受けるのは、自らをマイナスと認識するだけではなく、自らを価値なき者であるというよりも悪しき者と認める者である。自らに絶望している存在を覆う恵みがイエスの魂なのである。

ここにおいて、我々はイエスの友と言われるようになることを放棄せざるを得ない。しかし、放棄したとき、我々はイエスの魂の声を聴くのだ、「あなたのためにわたしはわたしの魂を置いたのだ。」と。「あなたが罪を増し加えてしまう存在であるからこそ、わたしはあなたのために超過的に溢れだす恵みを与える。」と。詩編86編13節で詩人が歌うとおり、「あなたの慈しみはわたしを超えて大きく、深い陰府から、わたしの魂を救い出してくださいます。」という恵みが生じるのである。深い陰府に沈んでいても、天からの声は響いている。イエスの魂は、深い陰府に降り給い、我らを引き上げてくださる。この御声を聞く者は幸いである。イエスの魂を受ける者は幸いである。イエスが友と言うのだから。満ち溢れる恵みに覆われているのだから。

祈ります。

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