「約束の派遣」

ルカによる福音書24章44節~53節

 「わたしが、わたしの父の約束を派遣している、あなたがたの上に。」とイエスは言う。「約束されたもの」と新共同訳では訳されているが、この言葉はエパンゲリア「約束」である。定冠詞がついているので「その約束」「あの約束」という意味だから「約束されたもの」と訳しているのである。しかし、「あの約束」を派遣するということは、「約束」自体をイエスが派遣するということである。「あの約束」とは一体何か。ここで意味されているのは神の霊である聖霊のことのように思える。しかし、果たしてそれだけなのか。聖霊の派遣は、イエスによって起こることではある。これは、父の霊、神の霊の発出が神からではあるが、イエスの派遣において派遣されるのであり、イエスの派遣があってこそ、弟子たちは迎えることができるということである。

イエスの派遣がなければ受け取ることがないとすると父から出るとしても、イエスと父との一致がなければ出ないということである。従って、ニケア信条が告白する通り、聖霊の発出は「父と子から出る」のである。父と子の一致において派遣される聖霊と「あの約束」とは同じなのか。聖霊を派遣することが約束なのだろうか。しかし、「約束を派遣している」と現在形で語られている約束は現在であり、後に降る聖霊は将来なのだから、違うことになる。

約束が聖霊の派遣であれば、「約束を派遣している」とあえて言うのは何故か。約束の派遣とは、派遣するという約束を実現することではない。約束の実現ということではない、「約束の派遣」なのだから。しかも、イエスの言は現在形で語られている、「わたしが派遣している」と。ということは、いずれ実現するのではなく、今現在派遣しているということである。そうであれば、派遣を待つのではないのだ。それなのに、弟子たちが待っていることを勧めているかのように、イエスは語る。「しかし、あなたがたは座していなさい、都のうちに。高き所から、可能とする力をあなたがたが着せられるまで。」と。派遣していると言いながら、可能とする力を着せられるまで座していなさいと言うのは、矛盾しているように思える。何故なら、派遣しているのだから、すでに着せられているのではないのかと思えるからである。しかし、可能とする力を着せられるまで座していることが弟子たちに求められている。そうであれば、聖霊の派遣は将来のことなのではないのか。「~まで」という言い方がなされるということは、約束を派遣している今と可能とする力を着せられる将来とは、時間的に隔たっているように思える。確かに隔たっているのだ。イエスが派遣しても、弟子たちが着せられることを受け取るまでの時間が「座している」時間である。弟子たちの受け取りは、イエスの派遣がすでに起こっている状態の中でしか起こらないということである。

「約束の派遣」は今現在起こっている。「約束の迎え」は将来起こる。この時間的隔たりは、イエス自身の派遣の絶対性と弟子たちの迎えの個別性によって生じるのである。さらに、この時間的隔たりによって、弟子たちだけではなく、その後のあらゆる人間が迎え入れる可能性が設定されているのである。現代に生きる我々も迎えることが可能なのである。イエスが2000年前の現在において「派遣している約束」があるからである。

約束の派遣は、約束に含まれている派遣であるから、迎えるとき、迎える人が「派遣された」と受け取ることになる。すでに派遣されているにも関わらず、このわたしに派遣されたと受け取る。絶対的派遣が個別的派遣として派遣されるのである。個別的派遣は、上から着せられるように迎えることである。それは、覆われることであり、包まれることであり、うちに入ることである。それゆえに、約束のうちに生きることである。ところが、この約束はあくまで神の国が来るときまで、約束であり続ける。一人ひとりが約束のうちに生き、約束を望み見て、約束のうちに生きることが可能となること。それが聖霊の派遣なのである。それゆえに、ここでは「約束の派遣」なのであり、「約束の実現」ではないのだ。そして、聖霊降臨は、神の国の約束のうちに生きる民を創出する神の業なのである。

そうすると、約束の派遣と高き所からの可能とする力の覆いという二つの事柄がここで語られていることになる。しかし、これは一つである。聖霊が覆うことによって、約束のうちに生きることが可能となるのだから、聖霊の覆いと約束の派遣は神の民を創出する二つの要素なのである。イエスはこの両者を派遣するのである。

天に昇るのは、父の許に至り、父の許から聖霊を派遣するためである。しかし、地上における現在においては、約束を派遣している。約束を派遣して、天に昇り、聖霊を派遣する。こうして、約束と約束のうちに生きることを可能とする力の両者が派遣されるのである。約束の派遣を迎えることが可能となるのが、聖霊の覆いである。聖霊の覆いによって、キリスト者として生きることが可能となる。そのとき、我々は悔い改めという方向転換をしているのである。

悔い改めが方向転換であるということは、如何なる方向転換なのか。約束が将来実現すると思って、その約束を自らが獲得すべく努力していた者が、迎え入れ、受け取る人間として生き始めるということである。獲得から受け取りへの方向転換である。それゆえに「都の中で座していなさい」とイエスは言うのである。イエスの命令に従って、座しているがゆえに、迎え入れと受け取りへと導かれるのである。座している者として生きることを可能とするのが、「約束を派遣している。」という絶対的現在であるイエスの言なのである。

この絶対的現在のうちに、将来を内包しつつ、イエスが語る約束の派遣。神の国に生きることを可能とする力である聖霊の派遣。その中で、悔い改めという方向転換が生じる。そして、悔い改めの中に入れられた者が、宣教することになる。イエスの十字架における罪の自覚と罪を越える生への希望。神の国の中に生きることを可能とする聖霊によって、神の国に向かって生きて行く神の民を創出する神の業。これらが、今日イエスが弟子たちに語ったことである。

我々キリスト者は、この約束の派遣を迎え入れた者である。約束の派遣が我々の上に派遣されたのである。派遣された約束の中で生きているのは、聖霊、すなわち神の霊によって生きているのである。神の意志を受け入れることを可能とする聖霊によって、我々はキリスト者として生きて行くのである。

聖霊の覆いは、イエスの昇天の後、十日経って起こる。四十日のイエスの語りの後、イエスは天に昇り、十日の後聖霊が降る。イエスの十字架から五十日が聖霊降臨ペンテコステである。ペンテコステは、五十日という意味である。十字架から数えて五十日目に、聖霊の覆いが生じ、弟子たちは神の国の約束のうちに生きる者とされ、悔い改めを宣教することとなる。イエスの昇天がなければ、聖霊は派遣されない。聖霊が派遣されて、神の意志を受け入れることが可能となり、神の約束のうちに生きる民が創出される。その根源は、イエスの十字架である。十字架がなければ、四十日後の約束の派遣はなく、五十日後の聖霊降臨もない。十字架というイエスの死を宣べ伝える聖餐は、この根源性を我々に付与する神の恵みである。聖餐によって、我々は神の約束の派遣を受け取る罪の自覚を生きることができるのである。座している者とされた者が、聖霊に覆われ、約束の中で生きることを可能とされる。罪の自覚があってこそ、座していることが可能となる。座している者こそが、聖霊に覆われる。約束の派遣の絶対的現在の中で、個別的現在を生きる者とされる。聖餐が我々に開くのは、イエスの死と我々の罪の関係である。イエスの死に規定された我々の罪を越える神の可能とする力が、聖餐によって我々に再活性化されるのだ。繰り返し聖餐を受けることによって、再活性化された聖霊の力に覆われることになる。今日も聖霊の力を再活性化させる聖餐を受け、約束のうちに生きて行こう、神の国に至るまで、約束の派遣の絶対的現在を。

祈ります。

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