「証言する証言」

ヨハネによる福音書15章26節~16章4節a

 「その方は、わたしについて証言するであろう。しかし、あなたがたもまた証言している。何故なら、初めから、わたしと共に、あなたがたがいたから。」とイエスは言う。あなたがた弟子たちが証言している現在は、イエスと共にいたという過去によっている。それなのに、イエスが父のところから派遣するパラクレートス励まし手、弁護者は将来イエスについて証するであろうとも言う。弟子たちは、イエスが十字架に架かる前から証言していたのだろうか。いまだ、彼らは何も分かっていなかったのではないのか。彼らは、イエスについての証言などしていなかったのではないのか。この世の現実においてはそうである。彼らは証言などしていなかったし、イエスのことを理解してもいなかった。理解していない者が証言などできるはずはないのだ。それなのに、イエスは弟子たちに、この時点で「しかし、あなたがたは証言している。」と言うのである。しかも、彼らがイエスと共にいた過去に従ってと。これはどういうことであろうか。イエスと共にいたということ自体が、彼らが語らずとも語っているということであろうか。そうであれば、弟子たちが証言しているというよりも、イエスと共にいたという出来事自体が証言しているということではないのか。しかし、出来事自体を経験した人間が証言するのではないのか。いや、出来事を経験した人間が証言するのではなく、証言するのは証言なのである。証言は証言がなすことだからである。

我々が証言する場合、出来事を見て知っているからこそ、証言する。それゆえに、イエスは弟子たちがイエスと共にいた過去に従って、「証言している」と言うのである。しかし、弟子たちは証言してはいない。何もイエスについて語っているわけでもない。それなのに、イエスが「あなたがたもまた証言している」と言うのは、語らずとも証言しているということである。イエスと共にいたということが、イエスについて証言していることなのである。弟子たちは、ただイエスと共にいたということによって、イエスについて証言しているのである。そのような証言は、弟子たちが知らず知らずのうちに証言している証言である。弟子たちの共にいたという証言が証言しているということである。弟子たちの口の証言ではないにしても、弟子たちの存在自体が証言していることが証言しているのである。彼らの証言が証言しているのである。証言しようと思わずとも証言している証言なのである。この証言は、イエスと共にいたという証言である。

一方、イエスが父の許から派遣する励まし手、弁護者、真理の霊は、将来証言する、イエスについて。この将来はいつなのだろうか。また、誰に証言するのであろうか。この霊が、励まし手であり、弁護者、真理の霊であるということは、弟子たちの証言を完成する存在ということである。弟子たちが証言していることを証言によって完成するのがパラクレートス励まし手、弁護者なのである。この方は、父の許にいたのだから、イエスが父の許にいたことを証言する、弟子たちに。こうして、弟子たちはパラクレートス励まし手によって、自分たちが共にいた地上のイエスが、天上のキリストであることを知るのである。従って、弟子たちは地上のイエスを天上のキリストとの同一者として認識し、自らの証言を証言する力を得るのである。しかも、地上のイエスが天上のキリストであるという証言までも行うことになる。こうして、弟子たちの証言は、地上だけではなく、天上にまで及ぶキリストを証言する証言となるのだ。そのとき、弟子たちの証言を励まし、助けるお方がパラクレートス励まし手、弁護者である聖霊なのだ。

弟子たちの地上のイエス証言とパラクレートスの天上のキリスト証言とが合一するとき、この証言は人間を、罪人を救う証言となる。天上と地上との合一が真理の霊の働きなのである。地上と天上が合一せざるを得ないことこそが、我々が証言することの必然性となるのである。天上と地上の合一において、我々は真に人であり、真に神であるイエス・キリストを証言するのである。この証言は、地上と天上の合一という証言となる。もはや、天上と地上の隔たりはなくなる。イエス・キリストについての証言が天上においても地上においても確立するとき、すべてにおいてすべてである神の支配が確立する。これが聖霊降臨において始まったことなのである。そこにおいて、証言するという証言が始まったのである。証言する証言。証言自体が証言するという動的状態において証言していることである。弟子たちが生きているということ自体が証言なのである。証言である弟子たちの生きている状態が証言しているのだが、生きている状態を励ましているのは、励まし手なるパラクレートスである。このお方が、弟子たちの存在としての証言自体を証言している、弟子たちのうちで。この励まし手によって、弟子たちは証言することが可能となるのである。

弟子たちのうちに生きている励まし手パラクレートスによって、弟子たちは証言することを恐れることがなくなる。そして、証言する証言を生きることになる。生きている証言こそが、他者を励まし、感化し、キリストと共に生きることへと導くのである。励まし手であるパラクレートスが我々のうちに生きるとき、我々は生きて行くことにおいて、証言する証言を生きるのである。そのとき、我々の証言は確固とした証言として我々から出て行くのである。何故なら、われわれの地上的認識のみならず、聖霊の天上的認識をも語ることになるからである。

地上的認識と天上的認識、人間として生きたキリストと神であるキリスト、我々と共に生きたキリストと天の父の許にあったキリスト、わたしのために十字架で死んだキリストと天においてこの世を造り給うたキリスト、弱さのうちに十字架に架けられているキリストと神の力によって生きているキリスト。これらすべてが、我々が証言する証言の中に生きるのである。それゆえに、我々は落胆することなどない。我々を打ち負かす反証などないのだから。むしろ、我々が語る言葉は、天の父の言、キリストの言、聖霊の言となるのである。ペトロが力強く証言したように、ステパノが石打にされてもなお証言したように。

地上と天上の合一において、我々に与えられる聖餐がさらに我々を強めてくださる。キリストの体と血は、地上におけるパンと葡萄酒という形で我々が自分の口で噛み、自分の喉で飲む食物として提供される。そして、信仰を通して、我々はキリストの真実の体を食べ、真実の血を飲む。地上的飲食が天上的飲食と一つとなる。十字架のキリストと復活のキリストに与る飲食となる。キリストの死を宣教すると同時にキリストの生を宣教する。こうして、我々のうちに地上と天上が一つとなる。相矛盾する事柄が一つとなる。そこに聖霊が働くからである。あなたがたが、聖霊の宮とされているからである。従って、聖餐は信仰において行われる飲食なのである。信仰がなければ、地上的な飲食のみとなってしまい、証言する証言の力を与えることはない。

我々は今日、聖霊降臨を祝っている。聖霊が如何に働き給うかを証言する使徒言行録を読み、キリストの約束の言を読んでいる。さらに、エゼキエルの見た幻、枯れた骨の復活の箇所を読んでいる。エゼキエルにおいても、地上的な骨が天上的霊によって生きることが語られている。地上的なものだけでは、神の命として生きることはないのだ。枯れた骨と命とは一つとなることはないのだ。神の許から吹く霊がなければ枯れた骨は生きない。神の意志である「彼らは生きる」との言がなければ生きない。自分の足で立つことはない。

我々が証言する証言は、地上と天上の合一に基づいた証言である。我々の経験と聖霊の証言である。我々自身が経験する聖書において語り給うキリストと天の父の啓示におけるキリストである。キリストが、我々の証言する証言の中に生き給うご自身を証言してくださるのだ。今日も聖餐に与り、出かけて行こう、キリストと一つとなって。キリストはあなたのうちに生きて、証言してくださる。わたしは生きていると。

祈ります。

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