「上から生まれる」

ヨハネによる福音書3章1節~10節

 「あなたは知らない、それがどこから来て、それがどこへ行くのかを。」とイエスは、ニコデモに言う。イエスは、風について語り、風の来し方行く末をニコデモが知らないのだと言う。「風」という言葉がプニューマ「霊」と同じ言葉であるがゆえに、イエスは「風」について語りながら、「霊」について語っている。ニコデモは、この世の「風」の来し方行く末を知らないだけではなく、「霊」の来し方行く末を知らないのだと、二重に語っているのである。二重の語りにおいて、イエスはニコデモの認識の闇を開こうとしておられるのか。しかし、ニコデモが見るものとイエスが見るものの違いがあるがゆえに開かれない。ニコデモは目に見えている現実を見る。イエスは目に見えている現実の源を見る。表面的な認識と根源的な認識の違いである。我々はこの違いを良く認識しなければならない。

我々人間は、見える現象を現実だと考える。一方イエスは見えない神の意志が現実を造るのだと考えている。現象と意志のどちらが現実なのか。しかも、この世の現象面は取り返しのつかないものであることをニコデモは認めている。それゆえに、二度目に母の胎に入ることはできないと考える。しかし、母の胎に入ることで「生まれる」ことではないのだとイエスは言うのだ。

母の胎に入るということが生まれるための条件だと考えるニコデモ。彼は、母の胎がなければ生まれないと考えている。しかし、母の胎が生むのではない。神が生むのである。神によって生まれるということは、現象ではない。現象面では母の胎から生まれるが、意志の面から言えば、我々は神から生まれるのである。この神から生まれるという事柄をイエスは「上から生まれる」と言っているのである。「上から生まれる」という言葉は、アノーセンという言葉で、「新たに」と新共同訳では訳されているが、「上から」または「根源から」というのが基本的意味である。自然的な生まれを母から生まれたと考えている我々が、神の意志によって生まれたと認識するとき、「上から生まれる」のである。

「上から生まれる」ということによって、何が起こるのかと言えば、ニコデモが認識できなかった世界、神の国を「見る」ことと、神の国へ「入る」ことが起こるのである。そうであれば、「上から生まれる」ことで、見えなかった世界である神の国が見えるようになり、見えるようになった神の国に入っていることが認識されるようになるのである。そのとき、我々は認識を開かれて、神の国を生きることが可能となる。しかし、これを認識の問題としてしまってはならない。我々が認識の在り方を変えれば、それが分かるのだということになれば、あくまで人間の認識の問題になってしまう。「上から生まれる」という出来事は、神が開き給う認識であり、我々の認識の変更ではないのである。この点を間違えると、結局人間の精神の問題になってしまうであろう。精神が変われば良いということになり、精神を変えることができるということになるのである。それでは、我々が主体であり、神は対象だということになってしまう。信仰は、我々が主体なのではない。神が主体である。神が信仰を与え、神が信仰のうちに生かし給う。この信仰のうちに入れられることは、神の主体を認め、神の主体の中に、自らの主体を移動することなのである。それゆえに、信仰は神への従順となる。

ニコデモは、あくまで人間である自分が主体である。自分が母の胎に再び入るという主体を手放さない。それゆえに、入ることなどできないという結論に至る。しかし、イエスが言うのは、上から生まれることであり、「上」すなわち「神」から生まれ、神が生み給う意志に従って、生まれることである。「生まれる」ことは受動態である。能動的に生まれるということはあり得ない。従って、我々は生まれる意志を受け取って、生まれるのである。神が我々を生む意志がなければ生まれないということである。神の生む意志に従って、我々はこの世に生を受けるという能動的受動である。

受動性における能動とは、受動を主体的に受動する能動である。この能動はあくまで受動を起こす主体である神に従う能動なのである。それゆえに、我々人間の主体は、神の主体のうちに入って、真実に主体的に生きることが可能となるのである。イエスが風の来し方行く末について語るように、風の意志なのか、風を吹かせる神の意志なのか、定かに判別できない。そのように風は吹くのである。それと同じように、霊から生まれる者、上から生まれる者は、神の意志のうちに自らの意志を生きるのである。そのとき、我々は神の国を見ている。我々は神の国に入っている。神の霊があなたのうちに吹いているからである。

神の国は、神の支配する意志が貫徹されている世界である。神の世界においては、神の意志に従わないということはあり得ない。従って、主体は神であり、主体である神に従うことに、主体的に従う存在が、神の国に入っているのである。そのような存在は、神の国を見ている。その人が神の国を見ているのは、神の主体の中に入っているからである。

このような認識が開かれるのは、「上から生まれる」ことによってであるとイエスは言う。そうであれば、「上から生まれる」というのは、神から生まれるという根源性を生きることである。しかし、自然的人間は現象面だけを考えるがゆえに、根源性を生き得ない。認識の開けを、生まれることだとは考えない。そのように思考することなのだと考えるのである。そのように思えば良いのだと考えるのである。それでは、結局人間的認識でしかない。人間的認識であれば、根源的な世界の開けは起こらない。考え方を変えれば良いというだけに留まり、生き方を変えることにはならない。開かれた世界で生きるということが世界の開けである。考え方の変更だけでは、我々人間は、生き方の変容には至らないのだ。それゆえに、認識の開けは「上から生まれる」ことがなければ開かれないのである。

「上から生まれる」ということは、「水と霊から生まれる」ことであるとイエスは言う。これは洗礼を意味している。洗礼は水の中への沈めである。水に沈められる死を通って、新たに水の中から起こされる。水と結びついた霊から生まれる。これが「上から生まれる」ことである。水に沈められた我々は、イエスの十字架の死の中へ沈められるのだと、使徒パウロが語る通りである。この沈めによって開かれるのは、水からの誕生であり、霊からの誕生である。死んで復活することである。これは考え方の転換ではないのだ。それゆえに、我々の洗礼は「神から生まれる」ことであり、「上から生まれる」ことであり、「水と霊から生まれる」ことの受容なのである。

洗礼によって、肉である我々が死に、霊である神の子として生まれる。それが我々の復活である。神の子として生まれる洗礼を通して、我々は神の国に生きる神の子とされる。霊から生まれた者は霊であるとイエスが言うとおりに。これは、神の必然であり、我々がなすことではない。沈められる者は、神の必然によって沈められる。神の必然に従うことによって、神から生まれる。それをイエスはこう言っている。「驚くな、わたしがあなたに言ったことを、『あなたがたは上から生まれることになっている。』と」と。そうである。驚くのである、自然的人間は。我々が生まれることを決定できると思っているからである。神の必然であれば、我々が決定できることではないのだ。神が必然的に生むことになっている人が生まれるのである。この神の意志に従う人が、上から生まれるのである。これを認識できる人は幸いである。

我々は、洗礼を通して、この認識を開かれ、神の世界へと開かれた存在である。あなたは神の意志が貫徹する世界に生かされている。上から生まれた神の子。神の意志に従って生まれた神の子。キリストの十字架、死と復活の必然を生きるべく生まれた神の子。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神から生まれた者である必然を生きるようにと生まれた者。神の意志に従い、神の霊に導かれて、生きて行こう、開かれた神の国を、キリストに従って。

祈ります。

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