「呼ぶために」

マルコによる福音書2章13節~18節

 「義人たちを呼ぶために来たのではなく、むしろ罪人たちを。」とイエスは言う。イエスが「呼ぶ」ということは、イエスに従うように呼ぶことである。これは召命クレーシスだと言える。しかし、イエスは何故に呼ぶのだろうか。自分に従わせるために呼ぶのであろうか。あるいは、縛られているところから解放するために呼ぶのであろうか。イエスに従うということは、縛られていたところから解放されなければできないことである。従って、イエスが呼ぶのは解放し、従わせるためである。

解放だけではどこに行けば良いのか分からなくなってしまう。それゆえに、イエスは従わせるのである。その人に行くべき道を歩ませるためである。ところが、イエスの道は十字架の道であり、苦難の道である。解放されて、良い道を歩むのであれば、誰でもついていくのであろう。縛られないだけではなく、善きことがあるのであれば、誰でもついていく。しかし、イエスの道が十字架の道であるがゆえに、誰でもついていくことはあり得ない。イエスの道を歩もうとする人間は、一般社会からは愚か者と言われるであろう。それでも、イエスに従い、イエスと共に十字架の道を歩む者は、一般社会から認められていない存在である。そうでなければ、一般社会から認められたものを捨てなければならないからである。イエスが「義人を呼ぶために来たのではない」と言うのは当たり前なのである。義人は呼ばれてもついて行かないであろう。何故なら、自分が認められる場所を持っているからである。しかし、罪人は認められない存在として、居場所のない存在である。それゆえに、イエスに従うことが容易にできるのである。と一般的には考えられる。

収税所に座っていたレビも同じである。彼は、ユダヤ社会からは敵であるローマの権威の下で、ユダヤ人たちを苦しめている存在だと見られている。それゆえに、彼にはユダヤに居場所がない。居場所がない存在がイエスに呼ばれた。居場所がないがゆえに、レビは立ち上がって、イエスに従うことができたと考えることができる。はたして、そうなのか。

こう考えると、レビが一大決心をしたというわけではないと思える。そうである。レビは一大決心をして立ち上がったのではない。彼は守るべき場所、自分が認められる場所が無かったのである。それゆえに、容易に立ち上がることができた。しかし、そうであったとしても、イエスについて行って良いのかという思いが起こらなかったのはどうしてなのか。通常、ついて行こうとしている存在を認めていなければ誰もついて行かない。レビがイエスを知っていたとは言えないのだから、レビがここでついて行ったのはイエスを知って、認めて、この人ならとついて行ったということではないのだ。では、レビはどうしてついて行ったのか。

レビは誰からも呼ばれたことはないのである。呼ばれなかったレビがイエスに呼ばれた。レビを真正面から見て、イエスは呼んだ。レビは初めて自分を見てくれるお方を知ったのだ。それゆえに、レビは立ち上がり、ついて行った。ただ、それだけである。しかし、このイエスの行為は、どうして起こったのだろうか。イエスはレビを見たのである、通りがかりに。イエスは自分の目に飛び込んできたレビを、神が見せられた存在として認めた。そして、彼を呼んだのだ。

イエスはレビを見たから呼んだ。神が見せられた存在であると認めたから呼んだ。そこにイエスが呼ぶ相手がいる。イエスは神が見せられた存在を呼ぶ。神が見せる存在は、人から認められていなくとも、神が認めている存在である。レビは、社会からは認められず、顔を見てもらうことさえもできなかった。しかし、神はレビの顔をイエスに見せたのである。「わたしはこの人を見ている」と見せたのである。社会的に認められなくとも、神が見ておられるレビ。そのレビを見せられたイエスは、レビを呼んだ。それだけである。そこにこそ、神の選びがあるのだ。

レビを見せ給うた神に従って、イエスは彼を呼んだ。呼ぶために来たのだと言うとおり、イエスは呼ぶのだ、認められない存在を。居場所のない存在を。人間として認められない罪人たちを。こうして、イエスの周りには多くの罪人たちと徴税人たちが集められたのである。

このような存在を認めたくないファリサイ派の律法学者たちはイエスを批判する。自分たちが認めていないのであれば、イエスを批判する必要もないのではないか。それにも拘わらず、彼らはイエスを批判する。どうしてか。罪人たちや徴税人たちは誰かに認められる存在であってはならないのだ。彼らの仲間で集まって、慰め合っていれば良いのだ。それ以外の人間が彼らを呼び、彼らと食事をするなどということがあってはならないのだ。何故なら、社会的に存在を否定されているのだから。それにも拘わらず、イエスが呼ぶとすれば、イエスは律法の教師ではなく、罪人の仲間になってしまう。結局、イエスは罪人なのだろうか。そのような思いで、ファリサイ派の律法学者たちはイエスを訝しみ、批判するのである。

イエスは彼らに言う、罪人を呼ぶために来たと。それがイエスの答えであるならば、罪人の仲間だということになるのか。いや、誰も呼ばない存在を呼ぶために来たというのだから、罪人の仲間になるのではない。イエスは罪人を呼ぶ存在である。罪人たちの主体である。罪人になるのではなく、罪人たちがイエスに従う存在になるのである。イエスという主体の中に入れられることが、イエスが呼ぶことなのである。そうであれば、イエスが呼ぶことは縛られている存在を解放して、この社会の中から外へと呼ぶのである。社会の中の主体である律法学者たちから排除され、社会の外に置き去りにされている存在。彼らは、社会の外に置き去りにされているが、社会に縛られている。何故なら、縛られていないならば、社会の外に置き去りにされることはないからである。社会から出て行くことができるからである。社会が規定した罪人に留まることはないからである。社会に規定された罪人として生きているとすれば、社会から排除されていても社会に縛られているのだ。そこから解放するために、イエスは呼ぶ。呼ぶために来た。こうして、社会が捨てたと言いながら、縛っている存在を解放したのがイエスである。イエスは呼ぶことによって、居場所のないところに縛られていた存在に居場所を与えた。社会の外という場所を与えた。イエスのあとについていくという場所を与えたのだ。

イエスに従うということは、社会の外に出て行くことである。社会が縛り付けていたものから解放されて出て行くことである。社会が認めないだけならば、どこかに行けたかもしれない。しかし、社会は認めないだけではなく、どこへも行けないように罪人という場所に縛り付けているのである。レビも収税所に縛られていたのだ。社会が排除しながら、収税所に縛り付けていたレビ。彼を解放するために、イエスは来たのだ。偶然通りがかったと思われるところに、神の意志を見たイエスが、レビを呼んだ。偶然はない。神の必然があるだけなのだ。イエスに召されるということは、神の必然の中で起こるのである。イエスに従うことは、神の必然の中で起こる。呼ばれるべき存在が呼ばれる。召されるべき存在が召される。居場所のないところに縛られている存在が、居場所のないところに解放される。この居場所のなさこそ、あるようにある場所である。レビがレビとしてある場所である。わたしがわたしとしてある場所である。その場所を作り出すのが、イエスが呼ぶという出来事なのである。

呼ぶために来たイエスは、呼ぶことにおいてわたしに場所を与えてくださる。どこにおいても生きていける場所を与えてくださる。誰も認めなくとも認められる場所を与えてくださる。十字架の上で、居場所のない生を生きたお方が、居場所のない場所を与えてくださる。呼ばれたように生きることが可能となる場所が与えられる。これが我々キリスト者の場所。呼ぶイエスというお方こそが、我々の場所。呼ばれることの中で生きて行こう、十字架のイエスに従って。あなたを縛るものはないのだから。

祈ります。

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