「必然的に生きる」

マルコによる福音書2章18節~22節

  「花婿が取り去られる日々がやってくるであろう。そして、その時、その日において、彼らは断食するであろう。」とイエスは言う。花婿が取り去られるときには、断食すると言うのだから、弟子たちは誰からも強制されず、命令されず、自発的に断食すると言うのである。それは必然的にそうなるということである。断食は必然において生じるものであって、強制や取決めによって生じるのではないということである。イエスは、弟子たちの必然を守るお方である。

布切れと葡萄酒の話もまた必然性を語っている。「誰も~しない」と言われているのだから、反対のことを誰でもするということである。これは、必然なのか。それとも、慣習だからなのか。そうすることになっているからするのか。必然的にそうするのか。破れないためには、古い服に継ぎを当てる布は古い布であるのは当然である。しかも、古い布と同じ時を過ごした布が良い。これも必然的にそうするのである。何故なら、経験上布が縮むことを我々は知っているからである。

新しい葡萄酒も革袋が破れないためには、新しい革袋に入れる。古い革袋は、それに入っていた葡萄酒と同じ時を過ごし、共に古くなって、伸びているからである。これ以上伸びないところまで伸びているのだから、新しい葡萄酒が発酵すれば破れてしまう。これも葡萄酒と革袋が同じ時を過ごす必然を生きているということである。

花婿の話、布切れの話、葡萄酒の話。それぞれに時が関わっている。そして、共に過ごす時間がある。花婿と共に過ごす時間があってこそ、取り去られるとき、断食する。同じ時を過ごした布だからこそ、継ぎ当てに相応しい。同じ時を過ごした葡萄酒と革袋も同じである。時において、必然的に巡り合い、共に過ごしたもの同士が生かし合うのである。これは必然的に生きることである。

同じ時間を過ごすという必然を生きていないもの同士は互いに破壊してしまうことになるとイエスは言う。これも必然である。しかし、破壊する必然ではなく、生かし合う必然をこそ生きるべきであるとイエスは言うのだ。弟子たちを守るイエスは、人それぞれが必然的に生きることを願っている。誰かに共に生きることを人間的に無理強いする場合、破れがひどくなるのだということでもある。

共に生きることも必然がなければ生きることはできない。人間である誰かが「共に生きなさい」と言うことではない。無理強いすることは、結局人間的なことでしかない。「しなければならないこと」として断食を規定するならば、それは必然ではないので、真実に生きているとは言えないのである。このように強いることがイエスの当時も現代でも行われていることである。

「しなければならない」ことと「必然的に生きる」こととの間には、越えようのない壁がある。「しなければならないこと」は自発的に行えないというだけではなく、人間が行うという壁である。「必然的に生きる」ということは、人間が行うことではない。神が行わせることである。人間が行う場合、それが自発的に行いたいと思ったことであっても、人間が計画するという悪が生じてしまう。この壁は人間が越えることができない壁である。越えようとしても越えることはできない。越えないようにして、越えることなのか。いや、越えないようにしても、越えなければ良いという人間の思いが働く場合、結局越えることはできない。これが人間的には決して越えることができない壁である。

この壁を越えるとすれば、それは与えられて越えるとしか言えないであろう。すなわち、「花婿が取り去られるとき」ということである。花婿が取り去られるという状況は、断食する人間が作り出すことではなく、神が作り出すのだ。神が作り出し、断食させるのだ。従って、人間がこれを作り出すことはできないのである。そうであれば、我々にはできないのである。それゆえに、イエスは「断食できるだろうか」と問うているのである。人間にはできないのだと。しかし、神がなさせ給うときが来る。そのとき、人間であっても必然的に断食するであろうと言うのである。

だとすれば、必然的に生きるということは人間的には不可能なのである。人間には不可能なことを「そうするであろう」とおっしゃるイエスなのである。ここにこそ、イエスの言の力、みことばの力が働いている。人間は、自分に不可能なことを無理強いする。新しい葡萄酒を新しい革袋に入れる人間が、古い革袋に入れと言う。新しい葡萄酒に同化するように強いる。これが、我々人間の行いである。自分が強いられて無理なことを、他者に強いる。自分が不可能なことを他者に強いる。こうして、他者を窒息させ、破れを生じさせる。破れを一層ひどくするのは人間なのである。古い人間なのである。自分たちが古い革袋に入っていることが必然なのに、新しい葡萄酒にも一緒に入れと無理強いする。こうして、すべてをダメにしてしまうのは、古い葡萄酒である古い人間なのである。

自分たちが必然的に生きてきた時間を、一緒に生きろと言っても無理なのに。それを継承しろと言っても無理なのに。そう言ってしまう愚かな人間。これが古い葡萄酒、古い服、ファリサイ派やヨハネの弟子たちである。そして、それを傍から見ている傍観者たちである。傍観者たちこそ、破壊者であり、すべてをダメにする者たちである。当事者は、必然的に生きている者たちである。しかし、傍観者たちは自分が生きていないのに、他者を批判し、争いを生み出す。これこそが一番の悪である。

この悪はどこにでも生きている。傍観者たちを使うのが悪魔である。ここでは「人々」と訳されているが、「人々」という言葉があるわけではない。「彼ら」という指示代名詞もない。動詞が三人称複数形の動詞であるだけなのだ。従って、これは「彼ら」と訳さざるを得ない。しかし、「彼ら」はいない。いないにも関わらず、いるかのように振る舞う。それが悪魔である。そのような声は「みんなが言っています」というように聞こえてくる。また、語ってしまう。「みんな」はどこにもいないのに。ただ、自分だけがそう思っていることなのに。そう思っている自分を正当化するために、「みんなが言っている」と言う。「みんな」はいないのに。これが、悪が働くときに語られる言葉である。「みんながそうしている」、「みんなが言っている」と。わたしが必然的に生きることが大事なことなのに。「みんな」を強調する。わたしは良いのだけど、「みんながね」と自己弁護する。これが今日の聖書で語られている悪の姿である。そこから解放されるにはどうしたら良いのか。神の時を信頼することである。

一人ひとりに神の時が与えられていることを信頼することである。みんながするのではなく、なすべき人間がなす。必然的にそうならざるを得ない人間が、与えられた時の中で、神の主体の中で生きるのを守ることである。その時を、神は一人ひとりに与え給うのだと、神に信頼していることである。しかし、人間は信頼できない。このわたしは信頼できない。どうしても、無理強いしてしまう。そこに、自分の罪を認めることからしか始められないのだ。

わたしがこうしようと必然的に生きる時を受け取って、他者にも時があることを認めること。それを強いるわたし、同じ時を望むわたしは罪に陥っているのだと認めること。そこからしか、始まらない。罪の自覚も必然の中でしか生じないのではあるが。

従って、解放される人間が解放される。認める人間が認める。それも必然である。これを越えようとする人間の強制は、すべてを破壊してしまうのだと弁えていることが大事なのである。わたしが罪深いがゆえに、すべてを破壊する悪に支配されていると認めることが大事なのである。その自覚さえも、神がなさせ給うこと。神が実現し給うこと。神の選びである。

あなたが、神に選ばれ、神に呼び寄せられ、神に思いを起こされ、実現していただける人間として、生きて行くことができますように。神の意志を必然的に生きる当事者として。

祈ります。

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