「人間のために」

2015年6月28日(聖霊降臨後第5主日)

マルコによる福音書2章23節~28節

 「安息日が人間のために生じた。人間が安息日のためではなく。」とイエスは言う。この言葉は麦の穂を積む行為を律法違反だと批判したファリサイ派の人々に対して語られている。彼らは安息日のために人間に許されていることは何かを考えているが、イエスは人間のために生じた安息日を考えている。これは律法の破壊であると思える。何故なら、律法を守るのではなく、律法に許されていないことをしているのに、人間のために安息日はあるとイエスは主張しているからである。イエスは律法を破壊するのか。

イエスが弟子たちの麦摘み批判に対して、弁護のために持ち出したダビデの故事は、非常の際の例外である。ダビデたちはいつでもそうしていたわけではない。非常の際だから、彼らの命を維持するために、祭司以外食べられない供えのパンを食べることが許されたということである。これは例外である。イエスは例外を一般化しているように思える。何故なら、弟子たちは空腹であっただろうが、死ぬほどの状態ではないから。まして、道を歩きながら、麦の穂を摘んだだけである。これを批判するファリサイ派の方が、批判のための批判であって、律法を守るための批判ではないと思える。ファリサイ派の方が常軌を逸していると言えるであろう。

しかし、イエスはさらに常軌を逸した弁護をするのである。弟子たちが死に直面しているというわけでもなく、軽い気持ちで摘んだ麦の穂なのだ。それがダビデの場合と同じだと言うのである。ダビデの場合は、例外的に認められることであって、これを一般化することはできない。一般化すれば、律法自体が破壊されるであろう。例外は例外である。律法がしっかりと確立しているがゆえに、例外も成り立つと我々は考える。これは至極当然のことである。

ところが、イエスは例外を一般化して、弟子たちにも当てはめるのである。これは行き過ぎではないかと思える。イエスが律法を破壊する者と考えるファリサイ派の立場も肯けるものである。しかし、イエスの例外を一般化することに懐疑的であっても、イエスが言う「人間のために生じた安息日」という律法理解は非常に重要な論点である。

ファリサイ派の批判の論点は、安息日に許されていないことをしているということである。この論理も安息日律法から言えば正しい。しかし、安息日律法が人間のために生じたという点から見れば、本末転倒した批判であるとイエスは答えているのである。この本末転倒した批判こそ、ファリサイ派の人たちのイエス批判であった。律法の本質は人間の保護、人間の福祉にある。しかし、彼らは律法の保護のために人間を罪人にするという在り方で生きている。この点をイエスは批判しているのである。

本来、律法は人間のために生じたのだということを考えるためには、特に安息日律法が目指している点を考えてみる必要がある。そのために、本日の旧約聖書の日課が重要である。申命記5章14節の最後にはこうある。「あなたの男奴隷もあなたの女奴隷も、あなたのように、休みを与えられるために。」と。主人であるあなたが、「七日目があなたの神ヤーウェのための安息日である」ことを守り、仕事をしないことで、そのもとで働く奴隷たちも休みを与えられると言われているのである。本来「安息日」は、シャバットと言うが、これは「止める」という意味である。他に「休む」、「留まる」、「離れる」、「欠乏に耐える」などの意味がある。本来は「休止」である。それゆえに仕事を止める。仕事をしない日と理解された。その目的は、申命記において明らかなように「奴隷たちも休むため」なのである。

それにも関わらず、ファリサイ派の人たちはしてはならないことをしているとの批判をもって、弟子たちを安息日律法に従わせようとする。弟子たちは、安息を楽しんで、麦の穂を摘んでしまったのではないのか。それを批判することによって、何が起こるかと言えば、安息日が安息にならないという事態が生じるのである。安息日にこれは許されているだろうか、それは良いのだろうかと、心配で安息どころではない状態に陥る。これでは本末転倒であるばかりでなく、安息日が拘束日に変貌するのである。それゆえに、イエスは「安息日が人間のために生じた」と言ったのだ。それが例外的な故事を引き合いに出した弁護であろうとも、イエスの目的は安息日を安息に留めることであった。これを例外によって、律法を破壊すると考える方がおかしいのだ。例外によって、律法の本質を現していると言うべきである。

弟子たちの行為を守ろうとするためではなく、安息日本来の意味を守るために、イエスは発言しているのだ。しかも、最後にこう言う。「人の子は主である、また安息日にも。」と。この言葉によって、イエスはご自身を安息日の主と主張しているかのようにも思える。しかし、人の子とイエス自身とを同定しているかどうかは分からない。イエスはあくまで「人の子」と言っているのだから。そうであれば、「メシアは主である、また安息日にも」ということになる。「メシアが主である」ということは当然である。「また安息日にも」ということも当然である。しかし、主であるということが、安息日を真実の安息に導くのがメシアであるという意味であれば、やはりイエスが自分を規定している言葉と解するべきであろうか。何故なら、先に断食問答で花婿が共にいる間断食できないものだとイエスは語っていたのだから。それゆえに、安息日に安息に入って、喜んでいる弟子たちの姿は、断食できない喜びのうちにあり、イエスの臨在と共に安息していることなのだということになる。それゆえに、イエスは人の子であり、メシアであり、安息日の主でもあるとイエスは語っているのだ。その安息の主メシアは、「人間のために」来たり給う主である。人間が安息するために、来たり給う主である。人間を律法の奴隷として、がんじがらめにするのがメシアではないのである。メシアは、我々人間が互いに縛り合って、罪人であると規定し、排除し、安息に入らせない状態を、安息に至らせるお方である。そのようなお方として、「人の子は主である、また安息日にも」とイエスは言ったのだ。

さらに、「人の子」という言葉が「人間」一般を表す言葉である点も考慮しなければならない。これが人間一般を表すのであれば、イエスが言う「人間のために生じた」という安息日の規定が、人間を縛りつけている主のようになっている状態を批判しているのである。安息日が人間の主なのではなく、人間が主なのであると。人間のために生じたのが律法であり、人間を縛り付けるために、律法があるのではない。人間の福祉、人間の保護のために、特に弱者保護のために、律法は生じている。律法は、他者志向的である。律法に従うならば、他者に向かうのである。他者を守るために生きるのが律法に従うことである。これを忘れてしまうのが、我々人間の罪である。

どうして、そうなってしまうのだろうか。我々人間が他者を支配し、他者を縛り付けるのは、自分への不安からである。自分自身の生きている意味が欲しいからである。ファリサイ派の人たちは、自分が懸命に律法を守っていることを覆されると自分自身の存立の場が無くなってしまうのである。それゆえに、守っている自分が守られるようにと、守らない者を批判し、罪人に規定し、排除する。こうすることで、自分は律法を守る人間として守られると考えるからである。実は、律法に縛られているのは、その人自身なのに。イエスは、彼らにも解放されて欲しいのだ。あなたが律法に縛られ、自分を確認し、これで良いのだと思いたいのは分かるが、律法があなたを生じさせることはないのだと。神の愛があってこそ、あなたは生じるのだと。神はあなたのために、あらゆるものを生じさせ給う。あなたを守るために、律法をも生じさせ給う。その心を受け取って生きることが、人間のために生きてくださるお方に信頼することである。大切なのは、神が生かし給うわたしを生きることである。十字架のキリストはその神に信頼して生きた、十字架の上で。その命をあなたも生きるようにと、体と血をくださる。感謝して受けよう、神の愛、人間のための安息を。

祈ります。

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