「悪魔的思考」

2015年7月5日(聖霊降臨後第6主日)
マルコによる福音書3章20節~30節

「彼らをそばに呼んで、たとえにおいて、彼は語った、彼らに。」と言われている。イエスは、直接的反論、直接的批判はしない。たとえにおいて語るということは、聞く者が聞くようにと語ることである。律法学者たちが聞く者であることを願いながら語っているイエス。イエスは、律法学者たちを悪霊とすることはない。悪霊の認識は、自らにおいて起こらなければならない。他者から、悪霊だと言われても、反発が生じるだけである。自らが認識するとき、受容と服従が生じるのである。

他者批判は、悪魔的思考に支配されている。自分のことは棚に上げているからである。自分が語る言葉を自らに対しては語っていないからである。他者を批判するとき、その同じ思考によって、自らも批判されることを理解していないからである。このような思考が悪魔的思考である。アダムとエヴァが罪を犯したのも、神を批判するように導かれたからである。自分たちが神のようになることを、神が妬んで、「食べてはならない」と言ったのだと思わされたからである。このような思考へと導かれた結果、罪に陥った。これが悪魔的思考である。自分が裁く裁きで裁かれるように導くのが悪魔的思考である。我々を終わりへと導く思考が悪魔的思考である。この思考から抜け出すには、自覚しかない。しかし、自覚できるならば悪魔的思考に陥らない。自覚できないがゆえに陥っている。それゆえ、抜け出すこともできない。

そうであれば、イエスはどうしてたとえで語るのか。語ったところで自覚できるものではないのに。語るだけ無駄ではないのか。しかし、語る。無駄であろうとも語る。それが、イエスが神の言である所以なのだ。イエスは計りそのものなのである。イエスの言によって計りが与えられ、いずれ裁きのときに、語られていた計りが示されるであろう。それはすでにあったのだと。すでに語られていたがゆえに、聞いていないことが確定するのである。悪魔的思考に陥っていたことが確定する。そのとき、自らを最終的に省みることができるならば裁かれることはない。このような言として、イエスは語っている。

我々もまた、イエスの言を聞かされている。我々もまた聞いているのか否かが問われる。我々が律法学者たちを批判するならば、聞いていないのであり、自ら裁く裁きに裁かれている。イエスがすでに語っているということが「あの男は気が変になっている」と言う人々によって確定されているのだ。誰も聞いていないとは言えないように。

イエス自身が神の言として語っていることを悪魔的思考は認めない。認めないがゆえに聞いていない。聞いていないがゆえに自ら裁かれている。この堂々巡りが生じる。抜け出せない堂々巡りから抜け出すためにもイエスは語る。すべてはイエスの言が中心なのである。抜け出せないとしても中心なのである。イエスを殺害したとしても中心なのである。イエスが十字架に架かったとしても中心なのである。イエスが「気が変になっている」と言われることで、イエスを自分たちの社会の外に位置付けていることが明らかになっている。悪魔的思考は、自分たちを中心としているがゆえに、イエスを外に位置付ける。こうして、イエスを裁き、イエスを十字架に架けてしまう。自分たちが神の言の外に生きてしまっていることを認めないがゆえに、十字架は必然なのである。この抜け出させない思考こそ、悪魔的思考なのである。ここから抜け出すことができないとすれば、「永遠に赦されない」とイエスが言うのも当然である。絶望的状態においてしまうのが悪魔的思考である。

我々はイエスの言を聞いているのか。自分自身が悪魔的思考に陥っていると聞いているのか。聞いていないとすれば、分裂しているのであり、終わりを持っているのである。悪魔的思考は終わりを持っている。終わりがある、終わってしまう思考である。永遠へと導かれない思考である。この思考に陥るのは、我々が滅びる存在だからである。死ぬべき存在だからである。アダムとエヴァの堕罪の結果を受け継いでいるからである。そうであれば、我々人間は絶望的な存在である。この絶望は、最初の人間たちの堕罪にすべてを負っている。この最初の人間たちのすべてが終わりを迎えるために、イエスは語り、イエスは十字架を負うのだ、人間として。イエスの終わりは語りの終わりではなく、分裂の結果でもなく、悪魔的思考の終わりである。この終わりに向かってイエスは今語っているのだ。これこそが神の語りであり、預言者の語ったこと。

神が語り続けている。イエスは語り続けている。終わりに向かって語り続けている。この語りを聞く耳を開かれる者のために。悪魔的思考から解放されるために。悪魔的思考の行き着く先を伝えるために。悪魔的思考がこの世界を縛っている。身動きできないように縛っている。この世界の外にイエスは立ち、それゆえに語ることができる。人々から「気が変になっている」と言われてこそ、語り続けることができる。イエスが立つ外こそが、神が立つ外だからである。我々は、神を外に立たせ、自らの世界を守ろうとする。他者を外に立たせることで、自らの世界の安寧を享受できると思う。それゆえに、外に立つ者が我々を裁く者である。我々を裁く言葉である。この言葉を如何に聞くのかが、我々の問題である。

自らのこととして聞いているならば、我々は外に立っている、イエスと共に。自らのこととして聞いていなければ、我々はイエスを外に立たせている、神から離れて。これがアダムとエヴァの末裔の姿である。我々がアダムとエヴァの末裔であることを認めるならば、そこから解放されることも可能なのである。しかし、認められない。認められないということは、受容できないのであり、聖霊を拒否することである。聖霊が神の意志を伝えるからである。聖霊が神の意志を伝えることを拒否するならば、永遠に赦されることはない。自ら赦されない状態に生きることになる。この言を聞く者は幸いである。この言と共に生きる者は幸いである。耳を開かれた者は幸いである。

開かれた耳を閉じてしまうことがないようにと、神は語り続ける。イエスは語り続ける、十字架の上から。それゆえに、週毎の礼拝において、我々は聞き続けるのである、神の言を。「聞け、そしてあなたがたの魂は生きるであろう。」と言われる神の言を。聞き続けることによって、開かれるときが与えられる。神は強制しない。神は受け入れる。神は愛する。悪魔的思考に縛られている者を愛する。それゆえに語り続けているのだから。

十字架のイエスを外に立たせ続けるのか、十字架の下にひれ伏すのか。我々には十字架がある。我々には十字架の言がある。我々には神の知恵がある。十字架の言は救われる者には神の知恵、神の力なのである。十字架の下にひれ伏すように、我々が生きるとき、イエスが我々の守りとして立ってくださる。外に立たされるとしても、共に外に立ってくださる。ここにこそ、我々の救いがある。ここにこそ、我々の言がある。我々を救い給う言がある。

町の外に立つイエスの十字架の前にひれ伏す者をイエスは守り給う。「見よ、ここに。わたしの母、わたしの兄弟。」と。イエスの十字架の許に我々の家がある。我々が帰る家がある。イエスの家がある。祈りの家がある。父の家がある。イエスの言を聞く家がある。分裂し、断片化してしまう家ではない。神の言がすべての者のうちに生きる家。終わりをもっている家ではない。すべての者が永遠を生きる家。神の国を生きる家が、イエスの十字架の許に、イエスの言の許に。

イエスは、耳を開かれた者にも語り続ける。あなたが再び閉ざされることがないようにと。あなたは聞く耳を開かれた者。再び閉ざすことなく、聞き続ける生を生きて行こう。キリストの者として生きる生を生きて行こう。キリストの言を聞き続けて。受容と服従の霊によって、生きて行こう。聖霊を受けるとき、あなたは悪魔的思考から解放されるのだ。ただ受けるとき、解放されるのだ。自らでは抜け出せないところから解放されるのだ。そのようになる者としてくださった神に感謝して。

祈ります。

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