「多言を制す」

2015年7月19日(聖霊降臨後第8主日)
マルコによる福音書4章35節~41節

「そして、眠りから覚めて、彼は叱った、風を。そして、彼は言った、海に。ものを言うな。黙れ。」と。イエスは、海に言う、「ものを言うな。黙れ。」と。眠っていたイエスが眠りから覚める。弟子たちが起こしたからである。イエスは、起こされるまで、何も聞いていなかったのである、海の言葉を。海の騒ぎを。弟子たちが騒ぐまでは。弟子たちが起こすまでは。

海が多くの言葉を語り、しゃべりまくるので、海は大荒れとなっている。何をしゃべっているのか。どうでも良いことをしゃべっているのか。重要なことをしゃべっているのか。それは分からない。しかし、海のおしゃべりは、弟子たちを騒がせる。それゆえに、イエスは起こされた。それまで、イエスは何も聞かず、海の喋りに耳を傾けることもなかった。それなのに、起こされたがゆえに、イエスは海に言うのだ。「ものを言うな。黙れ。」と。

この世界、自然は、いつもしゃべっているのか。人を不安に陥れる言葉をしゃべっているのか。地震にしても、波にしても、台風にしても、我々は自然現象の中で不安を感じる。それらが我々にしゃべっているからなのか。彼らは神の栄光を讃美しているのではないのか。自然は神を褒め称えているのではないのか。そうであれば、我々は不安を感じることはないであろう。我々を恐れさせる言葉をしゃべっているからこそ、我々は不安に陥るのではないのか。それゆえに、風と波が沈黙してこそ、弟子たちはイエスに驚くのであり、讃美するのではないのか。自然は沈黙の中で神を讃美する。神を指し示す。

では、沈黙しない自然とは、しゃべりすぎる自然とは一体何なのか。彼らの喋りは何を伝えているのか。不安を伝えるのであれば、自然は悪に利用されているのだろうか。しゃべる自然は悪なのであろうか。確かに、沈黙こそ我々被造物の在り方である。しゃべりすぎることは、悪に利用されるのである。悪が入り込むすきを与える。自然の喋りも悪に利用される。それゆえに、自然が多く語り過ぎると、人間は不安に陥る。しかし、イエスは自然の喋りに耳を開かず、眠る。

多くしゃべりすぎること、多言は、大事なことを見失わせる。多言によって、我々は翻弄される。どれが真実なのかが分からなくなってしまうのである。人の言葉においても多言は悪しきものである。しゃべりすぎる人間は、自己をも欺瞞に陥れる。自己弁護する者は、何とか言い逃れようと多言を弄するのである。多言によって、我々は欺瞞に翻弄されることにもなる。この多言を制するのがイエスである。

イエスは、沈黙を促す。ものを言うことを制する。ものを言うことが悪であるかのように制する。多言を制するイエスは、沈黙して眠っていたのだ。この姿こそが信仰の姿であるとでも言うかのように。イエスの眠る姿こそ、信仰者の姿である。多言に耳を傾けず、ただ神にのみ信頼している姿。これが信仰の姿である。多言に翻弄されるのは、信仰者ではない。この世界は多言に満ちている。多くの言葉が、我々を不安に陥れる。多くの言葉で、我々は自己弁護する。多くの言葉で、罪を隠そうとする。沈黙していては、誰も分かってくれないと多言を弄する。多く語れば理解されると思い込む。自分自身の罪意識も多言によって覆い、罪意識を隠す。こうして、我々は多言によって、自らの罪を覆い隠すのである、自分自身からも。

しかし、自然は神を讃美しているのではないのか。自然が多言を弄して、自己弁護しているのだろうか。そうではない。自然は多くを語るのだ。しかし、騒ぎ立つ自然は、語り過ぎる。しゃべりすぎる自然によって、我々は不安を感じ、翻弄される。それゆえに、イエスは自然を制止する。「ものを言うな。黙れ。」と。イエスは自然のしゃべりを子守唄に眠っていたのだ。自然の多言を子守唄のように聞くのがイエスである。イエスが神への信頼に生きているがゆえに、そうなのである。しかし、弟子たちは神への信頼に生きていない。生きるまでにはなっていない。それゆえに、彼らにとっては子守唄ではなく、心騒がせる多言にしか聞こえない。そのような弟子たちのために、自然の多言を制するイエスなのである。

人の多言も、我々が翻弄されるようにしか聞けないがゆえに、子守唄にはならない。人の言葉によって、安眠を妨害されることも起こる。それらは、単なるおしゃべりに過ぎず、真実の言葉は神の言以外にないのだと信頼していることができるならば、イエスと共に眠っているであろう。周りが騒いでも、揺さぶられることなく、眠っていることができるであろう。それが神の子としての信仰者の在り方なのである。それができないのが罪人の在り方なのである。それゆえに、罪人は罪人の多言に翻弄され、多言に多言で対抗し、多言に巻き込まれて行く。多言に対抗するのは沈黙なのである。

沈黙によって、我々は神の支配の中に生きることができる。イスラエルの預言者たちも沈黙の中で、神に信頼しているようにと勧めたのだ。しかし、周りの国々の騒ぎに狼狽えた民は、あちらの国、こちらの国へと援助を求め、結果的に自らの滅びを招いてしまった。周りが騒ぎ立っているとき、沈黙して、神に向かうことこそが、真実の平和の中に生きる術なのに。

聞くべきは神の言。聞かざるべきは多言を弄する被造物。自然も人間も、多言を弄して我々を不安へと陥れる悪に使われてしまう、アダムとエヴァのように。悪に使われないためには、沈黙が必要なのである。では、悪は沈黙を使い得ないのか。いや、沈黙さえも多言に変えてしまうのが悪である。「あの人が黙っているのは、あなたを批判しているからなのだ。」と悪がわたしに語りかける。人が沈黙していても、悪がわたしに多言で語る。それは、わたしのうちに働く悪の業である。あの人はただ沈黙しているだけなのに、その人の内なる声が聞こえるかのように悪は語るのである。これも、不安を掻き立てる悪の業である。そのような声、多言に耳を傾けないことが大事なのだ。イエスが海の多言に耳を傾けなかったように。

弟子たちは、海の多言に翻弄された。しかし、海自体は多言を弄して、弟子たちを不安に陥れようとしていたわけではない。ただ、風が起こり、波が高くなっただけである。そこに自然からの多言があったのかと言えば、イエスが聞かなかったのだから、本当はなかったのだ。それなのに、弟子たちには海の多言が聞こえてきた。「お前たちを飲み込むぞ。」、「お前たちの命は失われるぞ。」という言葉を、弟子たちは聞いてしまったのだ。それゆえに、彼らは恐れ、不安の中で、イエスを揺さぶり起こすのだ。

イエスは海に向かって「ものを言うな。黙れ。」と言ったが、この象徴的行為によって、静まったのは、沈黙したのは弟子たちである。弟子たちが騒がされ、多言を語っていたのだ、互いに。弟子たちの多言が、イエスを起こした。それゆえに、イエスは海に向かって沈黙を命じながら、弟子たちを叱ったとも言えるであろう。彼らに不安な心を起こしている悪に向かって、「ものを言うな。黙れ。」とイエスは命じたのだ。イエスは、海だけではなく、弟子たちも含めた神の世界の平和を沈黙として命じた。沈黙こそが、被造物の在り方であると。信仰者の在り方であると。沈黙は、自らの内なる多言を制すことである。イエスによって、我々は沈黙に入れられる。沈黙に入れられて、自らの内なる多言が制御される。イエスの命令によって、我々が沈黙に入るとき、我々は神の世界の平和の中に生きることができるのである。

イエスの十字架はこの沈黙の姿を語っている。沈黙においてこそ、神の愛への信頼を生きることを語っている。イエスの十字架の沈黙こそが、信仰の姿である。キリストの形、十字架の形が我々のうちに形作られるために、イエスはご自身の体と血を今日、我々にくださるのだ。我々の内なる多言を制すイエスの十字架の死が、我々のうちに生きて働く神の力である。感謝して受け取ろう、神の平和を。神の沈黙を。神への信頼を。

祈ります。

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