「自ずからなる国」

 2015年7月12日(聖霊降臨後第7主日)
マルコによる福音書4章26節~34節

 「自ずから、地は実をもたらす。」とイエスは言う。自ずから、実をもたらすのは、「地」である。「種」が実をもたらすのであれば、分かる気がする。しかし、実をもたらすのは「地」である。この地こそが「神の国」なのか。「種」も「種をまく人」も「神の国」ではない。「地」が実をもたらすがゆえに「神の国」のたとえとして語られているのである。しかし、次なるたとえでは、「からし種」が大きくなることにおいて、「神の国」が語られている。これも「種」が「神の国」なのではなく、「小さい種」が「大きな野菜」となるという出来事が「神の国」なのである。従って、これらのたとえにおいて、イエスが語っているのは、「種」でも「人間」でもない「自ずから実をもたらす」「地」なのである。この「地」において「神の国」のような有様が展開されているとイエスは言うのである。それが「自ずから」という言葉で語られている。「自ずから」ということは、「地」自体が自動的に実をもたらす力を持っているということである。この「地」がなければ、からし種も大きな野菜になることはないのだ。「地」こそが「神の国」の力を示している。

では、「地」は「神の国」なのか。いや、「自ずからなる」という出来事自体が「神の国」なのである。何故なら、「種」自体は種であり、そのうちに茎、穂、実となるものが可能性としてあるが、可能性だけではそれは現れないからである。からし種も、大きな野菜となる可能性をうちに持っているが、地がなければそうはならないのである。従って、「地」が「神の国」の力を「自ずからなる」ものとして持っていると言えるであろう。

しかし、「地」は「神の国」と同じではない。むしろ、「種」と「地」との関係において、「神の国」の性質を持っているとイエスは言うのである。「種」と「地」との関係とは如何なる関係なのか。「種」の可能性を開花させる力が「地」にあるとすれば、「神の国」は「種」の可能性を発芽させ、成長させる力としてあることになる。そうであれば、「神の国」とはこの力のことを指しているのである。しかし、神は単なる力ではない。神は意志を持っている。神がこの世界を造ったのであれば、意志があってこそ、この世界は神によって造られたと言えるのである。偶然できたものを造ったとは言わないからである。従って、神は単なる力ではない。

ところで、「自ずから」ということは、意志がなくてもなることのように思える。しかし、意志がなければ「自ずから」はない。何故なら、「自ずから」を支配する意志が主体として「自ずから」を作用させるからである。「自ずから」とは、神が自ずから作用させる力を指していると解するべきであろう。何故なら、「自ずから」という言葉のうちには、「地」自身の作用力が示されているからである。「種」のうちにある可能性を開花させる作用力としての「神の国」が「自ずから」の力を行使しているのである。

しかし、「自ずから」ということは、「神の国」はどこにでもあるということであろうか。神の意志があるところにはどこにでもあるのか。そうである。しかし、神の意志がない世界はないのだから、この世界の中に神の意志である「自ずから」が働いている。「自ずから」が働いているところが「神の国」なのである。

我々人間のうちにも「自ずから」が働いているのだろうか。いや、我々人間を受け入れ、発芽させ、可能性を開花させる力が、我々を包んでいるがゆえに、我々は生まれ、成長して行くのである。その世界をイエスは「自ずからなる国」として語っていると言えるであろう。ところが、「自ずからなる国」に生きていながら、その力を拒否し、自分で大きくなるとか成長すると考えるのが人間なのである。我々人間は「自ずからなる国」に生かされているにも関わらず、その国や力を認めず、自分の力だと勘違いし、自分の力で大きくなろうとしてしまうのである。このとき、我々は「自ずからなる」のではなく、自分で自分がなりたい者になろうとする。あるいは、世界を自分の都合のよい世界にしようとする。それは、神の国ではなく、人間の国、いやわたしの国なのである。わたしの国に生きるとき、我々は神の国、自ずからなる国の外に生きることになる。そして、神が可能性として与えてくださっているものを開花させることなく、自分の考えの範囲内に留まる。自分の考えの範囲内に留まるだけではなく、自分の狭い世界をすべてだと勘違いする。こうして、自分の世界を、自分がどうにかしなければならない世界としてしまうのである。こうして、「自ずからなる国」は消え失せ、わたしの国が出現する。しかし、わたしの国はわたしと共に、わたしの思考と共に消え失せる。わたしの思考の変化と共に変わってしまう。周りの変化にも影響され、変わらざるを得なくなってしまう。こうして、我々人間の世界は常に同じ過ちを繰り返す世界となってしまうのである。

神の国は、繰り返しがないのかと言えば、あるのだ。種一つひとつに同じ経過が起こる。しかし、それぞれの種の可能性は違っている。同じ経過の中で、その種自身の可能性がそれぞれに開花すると言えるであろう。繰り返しというよりも、同じ経過、同じ力が働くということである。神が与えた可能性の違いがあっても、神の働き、神の国の力は同じだということである。

この力の中で、我々も、種たちも、神の国に生きるのである。それぞれに与えられた可能性を生きるのである。この可能性は、種自身に与えられており、地が種自身の可能性を自ずから発芽させるのである。この場合、種の「自ずから」と地の「自ずから」とが一つとなって、作用する。これが、マルティン・ルターが「キリスト者の自由」において語った「神の言との合一」である。この合一は、「種」自身からは生じない。「地」である「神の言」が作用して、合一が起こるのである。地の力によって、神の国の力によって、種と地との「自ずから」が合一的に働いて、種自身を発芽させるのである。

それゆえに、イエスは「ちょうど聞くことが可能とされるように、これらのたとえによって語った」のである。これは、「たとえ」であれば、理解できるからという意味ではない。神の言を聞くことが可能とされるのが「たとえ」だという意味である。従って、聞く耳を持っていない者が、聞くことを可能とされるのは、たとえによってなのである。彼らが理解するということではない。神の言と合一するということである。その場合、神の言が聞く者の中で働くのである。この働きを可能とするために、イエスはたとえで語ったのである。

イエスのたとえは、理解させるためではない。むしろ、理解できない神の国の力を神の言として聞くようにと語ったのである。このたとえを聞いて、神の国が分かったと思っても、生きることはできないのである。むしろ、分からないが、神の言が働くということが起こる。そのときには、我々人間の理解力ではなく、神の言自体の力が働くのである。それが「自ずからなる国」としての神の国の力である。それゆえに、4章12節で言われていたのだ。「彼らは見ることを見ているが、見ていない。彼らは聞くことを聞いているが、理解していない。そして、彼らは向きを変えず、赦されない。」と。これがたとえで語る理由であった。人間が自ら見ているとか理解していると思えないために、たとえが語られている。それゆえに、たとえはただ聞くことが可能とされている者だけが聞く言葉となっているのである。

聞くことが可能とされるように聞く者は、イエスの言との合一を生きることになる。イエスがたとえで語ったように、自ずからなる国に生きることになる。これは理解ではなく、イエスの言がその人を生かすことである。ここに至るためには、ただ聞き続けることが必要である。「聞け、そしてあなたの魂が生きるであろう」と言われる神の言を聞き続ける者は、理解を超えた信仰の世界、神の国の力に満たされるであろう。あなたはこの世にあって、神の国の力によって生きて行くことができる。自ずからなる国に生かされるのだ。あなたのただ中に神の国は生きているのだから。

祈ります。

 

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