「流れ入る命」

2015年7月26日(聖霊降臨後第9主日)
マルコによる福音書5章21節~43節

 「十二年、血の流出のうちに生きている女」と言われている。さらに、「何故なら、彼女は12歳だったから。」と、少女の年が語られている。どちらも12年。12年血が流出し続けていた女と12年で命が眠っていた少女。彼らの12年が、この出来事を取り囲んでいる。イエスの出来事を取り囲んでいる。12という数が、イスラエルの十二部族を表しているのであれば、女と少女はイスラエルの失われた羊であろうか。失われた者たちの回復が、イエスの出来事において起こっているのか。イエスの出来事は、十二部族の回復を語っているのか。それは分からない。しかし、12という数字がこの二人を結んでいることは確かである。そして、イエスは12という数字に仕えている。
「12年血の流出のうちに生きた女」という表現は、女が血の流出に翻弄されたことを語っている。「彼女は12歳だった」という表現は、12歳で終わらんとしていた命が語られている。そして、二つの12年の命が回復されたことを語っている。12年の命が回復され、それぞれに生かされることになったのは、イエスの力の流出によってである。イエスから力が出て行ったので、彼らは命を回復された。女と少女は、イエスの力が流れ入ることによって、命を回復されたのである。
そのために、イエスの力の流出が起こる。イエスが、力を、命を、流れ入れさせるのではない。イエス自身も力が出て行ったことを後で感じたのである。この力の流出は神がなし給うたことである。イエス自身の意志によらず、神の意志によってイエスから力が出て行くのだ。イエスは力が出て行くことを制御できない。神が制御している。これはどういうことであろうか。イエス自らの意志によらず、力が出て行く。神が、力デュナミスが出て行くようにする。それによって、二人の女性が命を回復する。イエスからの流出によって、命が回復される。ということは、イエスから力が出て行くことは、神の意志なのである。それゆえに、イエスは会堂長に言う。「恐れるな。ただ信じなさい」と。イエスを信ぜよとは言わないのだ。ここで言われている「信じなさい」とは神を信じることである。神の意志を信じることである。イエスから力を流出させた神を信じることである。命の回復が神の意志なのだから、その神を信じなさいということである。「少女は寝ている」のだとイエスが言うが、それは命が起こされることを意味している。起こせば良いのだとイエスは言ったのだ。
回復することは、起こすことである。今まで眠っていたものを起こすことで、回復される。今まで、12年血が流出していた女も、神の意志によって、力デュナミスを入れられたのだから。それと同じように、神がイエスにめぐり合わせた存在は、神の意志によって生きるように導かれているということである。イエスに出会うということにおいて、我々は命を回復されるべく、神に導かれているのである。それゆえに、イエスは言う。「恐れるな。ただ信じなさい。」と。
血の流出のうちに生きていた女も、ただ信じた。イエスを信じたというよりも、イエスに触れれば癒されると、神を信じたのである。彼女の信仰も、神が与えたもの。神が彼女に信仰を与え、イエスに触れる思いを起こされた。それゆえに、女はイエスに触れる。それゆえに、神の可能とする力デュナミスがイエスから流れ入ってきたのだ。流れ入る命を受け取った女は癒されていた。女は、流れ入る命を受け取っただけである。それこそが信仰なのである。
神の力デュナミスは、受け入れるだけで良い。我々が獲得するのではない。我々が力を起こすのでもない。神の意志に従って、神の力デュナミスが入ってくる。入りくるデュナミスを受け取る。それだけが信仰なのである。それゆえに、イエスが言う「ただ信じなさい」という言葉は、神を信じることであり、神の意志を信じることである。さらに、神の意志によって導かれていることに従うようにという意味でもある。
我々は自分で神の力を獲得することはできない。ただ受け取ることができるだけである。しかも、信仰が与えられていなければ、受け取ることさえもできない。従って、我々が癒されることや命を回復されることも、ただ受け取ることであり、神が与え給う信仰の働きなのである。信仰をただ受けるとき、我々は自らの力ではなく、神の力デュナミスによって信じる者とされるのである。ここに信仰の神秘がある。
信仰は神秘である。神の業である。神のデュナミスの業である。流れ入る命が、神のデュナミスなのである。神のデュナミスは、我々のうちに流れ入る。そして、我々の命を真実に回復する。では、流出や眠っていることは、神の業ではないのか。いや、それさえも神の業である。自らの命の危機によって、彼らは命を回復された。とすれば、命の危機とは言え、命の回復に導く神の業だと言えるであろう。そうである。我々は命の危機に直面して、真実の命に回復されるのである。自分で何とかできる命だと思っている間は、我々は命を回復されることはない。何故なら、自分で何とかできると考えているからである。血の流出の女は、すべてを失って、どうにもしようがないところに置かれた。それゆえに、イエスの服の裾に触れることだけが彼女の希望となった。少女も、自分ではどうにもならない命の眠りに陥った。そして、自覚なきときに、イエスが手をつかみ起こすことによって、彼女は起きたのである。二人とも、自分の力ではどうにならないところに導かれた。それも神の業である。そこに至って、彼らはイエスからの力の流入を受け取ることができたのである。
我々が信仰を与えられたときも、同じように自らではどうにならないところに置かれ、どうにもできない自分を感じ、自分を捨てたのである。こうして、我々も自らの力ではなく、神の力によって救われた。これが神の働き、神の力デュナミスなのである。我々に不可能を教え、神の可能とする力を受けるように導く神の業。これこそが我々の救いなのである。従って、我々は自分で救われたのではないことを忘れてはならない。神の意志によって救われたのだ。どうにもしようのないところに導かれて、救われたのだ。どうにもしようがないところに置かれていることが神の恵みである。そうであれば、我々は如何なるときも、神の恵みの下に置かれているのだ。常に、我々が不可能なことを可能とするデュナミスの中に生きるようにと、神は働きかけてくださっている。この神の力デュナミスを拒否するのは、自分の力に頼っている者である。自分の力に頼る者は、神に従うことはできない。神に信頼することもできない。信仰を受け取ることもできない。力なき者が、自らの力を放棄せざるを得ないところに置かれて、見捨てられているように思えるとき、神の力を受け取ることが可能とされるのである。
見捨てられている二人の女性、12年血の流出に生きた女と、12歳で命の眠りに陥った少女。この二人がイスラエルの失われた羊を表している。見捨てられた羊を表している。見捨てられてもなお、命を回復されることを証している。この出来事がイエスの十字架を表していることは明らかである。我々は、見捨てられた状態に置かれたイエスの十字架によって、命を回復されている。イエスの命が流出し、我々のうちに流入する。それがイエスの十字架である。イエスの十字架から流入する神の力デュナミス。十字架の言は、力なき者の力、見捨てられた者の顧み、失われた命の回復。十字架のうちに、我々の命が溢れている。流出するイエスの命、神のデュナミスが溢れている。十字架によって、我々は真実に生きることができる命を回復されるのだ。
十字架に死ぬことを通して、イエスが回復された命は、力なき者を生かす。弱きものを立たせる。救われるべき者が、十字架の下に導かれる。こうして、我々を救わんとする神の意志に従って、我々は救われるのである。イエスから流れ入る命によって、我々は真実に人間として生きて行くことが可能となる。感謝して、イエスに従って生きて行こう。
祈ります。

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