「喜びの充満」

2015年8月2日(平和主日)

ヨハネによる福音書15章9節~12節

 

「これらのことをわたしは語った。わたしの喜びがあなたがたのうちに生き、あなたがたの喜びが満たされるために。」とイエスは言う。イエスの「喜び」とはいったい如何なる喜びなのか。また、「あなたがたの喜び」とはイエスの喜びと同じなのか。それが問題である。

我々人間の喜びは、人間自身の喜びであり、我々が自分のために喜ぶことである。自分に喜ばしいことが起こることを喜ぶのが我々の喜びである。しかし、イエスの喜びとは父の愛に基づいた喜びである。何故なら、弟子たちの喜びが満たされるためにイエスが語った言は、「互いに愛する」という戒めだからである。この戒めが「喜びを満たす」ものだということである。従って、自分に喜ばしいことがある喜びではなく、他者に、隣人に喜ばしいことが起こる喜びである。このような喜びは、我々自身からは生じない。何故なら、我々は自分のことしか考えていないからである。他者の喜びが妬みとなり、他者の不幸は喜びとなるのが、我々人間だからである。このような人間にイエスは戒めを語る。この戒め、掟の中で生きるとき、我々からは生じない喜びを生きることになるのだとイエスは言うのである。それは如何にして生じるのであろうか。イエスの愛のうちに留まることにおいてである。

ヨハネによる福音書15章は、ぶどうの木のたとえとしてイエスが語った言である。ぶどうの木に枝が留まっているがゆえに、実を結ぶことができるというたとえである。それゆえに、枝が結ぶ実は、喜びである。しかし、その喜びが他者のための喜びであるということは、ぶどうの木のたとえが目指しているところでもある。何故なら、果樹の実は果樹自体が享受するものではなく、果樹以外の存在が享受するものだからである。果樹の実は他者のために結ばれるのだ。

他者のために結ばれる実を結ぶようにと、イエスは戒め、掟を語った。この命令に従えば、あなたがたは他者のための実を結ぶことができるのだと。それが「互いに愛する」ことであると。しかし、仲間同士の間で「互いに愛する」ことがあっても、仲間ではない存在には、敵意を感じるのが人間である。イエスの命令はそのようなものであるはずがない。だとすると、「互いに愛する」ということが外に向かわなければならないことになる。

しかし、外に向かう愛が「互いに愛する」愛なのであろうか。いや、神の愛に基づいて「互いに愛する」のだから、必然的に外に向かうのである。何故なら、神の愛は神の愛に背いた人間に向けられているからである。では、イエスも同じ神の愛を受けたのであれば、イエスは神の外にいるのであろうか。イエスも神に背いたのであろうか。いや、イエスと父なる神とは必然的に愛し合う関係を生きている。しかし、我々人間は、堕罪によって、必然的であった神との愛の関係から出てしまったのである。それゆえに、イエスと父なる神との必然的愛の関係が、外に出てしまった人間を求めるのである。

神との愛の関係を抜け出してしまった人間は、人間同士の間でも「互いに愛する」ことができなくなってしまった。仲間は愛するが、敵は愛せない。仲間から抜ける者は敵となる。そのような人間関係の中で、我々人間は「互いに愛する」ことを仲間意識や情に還元してしまったのである。我々は実は愛することができないのである。父の愛を受け取っていないからである。イエスの愛を受け取っていないからである。イエスの愛のうちに留まっていないからである。それゆえに、イエスは弟子たちから始めるようにと、戒めを与える。命令を与える。掟を与える。

この命令の中で生きるとき、イエスの喜びが我々のうちに生きる。そして、我々の喜びが満たされる。それは、イエスのように生きる喜びである。イエスのように他者のために実を結ぶ喜びである。イエスが愛してくださったように、自分を捨てて、他者のために生きる喜びである。しかし、このような高尚な愛を我々が生きることができるのであろうか。イエスのようになり得るのであろうか。確かに、我々自身ではなり得ない。我々が他者を愛そうとしても、見返りを求める。見返りが与えられなければ、憎しみが増す。憎しみが増したところで、敵意が生じ、愛したはずなのに、他者を滅ぼそうとしてしまうのである。何も求めず、与える喜びに生きることは、我々人間には不可能なのである。それが我々の罪である。

では、イエスは何故命令するのか。我々ができるからではないのか。いや、我々ができるから命令するのではない。できないから命令しないのでもない。我々人間は愛することができないということをイエスはご存知である。それでもなお、命令するのである。だとすれば、この命令は意味がないのではないか。誰も聞き従わないのであれば、語る必要もないのではないか。確かに、我々人間は神に聞き従わない存在である。それが罪人である。それでもなお、イエスは命令を与える。我々が真実の喜びに生きてほしいからである。真実の喜びに満たされて欲しいからである。我々が真実に他者のために喜ぶとき、イエスの喜びがわたしのうちに生きているのだ。そのように生きてほしいとイエスは今日語っている。ここにこそ、真実の平和への道がある。我々人間から始まらない平和の道。それが「互いに愛する」ことである。

我々人間には不可能なことであるが、神に不可能なことはない。ただ神ご自身だけが我々を愛する者に造り給うのだ。神の言だけが、我々を愛する者に造り給うのだ。神の言、神の意志が我々のうちに生きて働くとき、我々は愛する者として造られて行くのである。他者の喜びを喜び、他者の涙に共に涙する。情に流されるのではなく、神が愛し給う存在として愛する。神に愛された者として愛する。それが、イエスが求めていることである。イエスの十字架が我々に語っていることである。イエスの十字架における神の愛が、我々の魂を捕え、魂とキリストの言が一体となるとき、我々は十字架を喜ぶ。十字架に基づいた愛のうちに生かされる。我々人間からは生じない愛の中に生きることが可能とされるのである。そのためにも、イエスは語り続けるのだ。イエスの言が、我々を造り変える。我々からは生じない愛のうちに包み、我々を造り変える。それは命令としての愛。掟としての愛。

イエスが神に従うのは、神の命令に従うことである。イエスの愛も神の命令である。神の意志である。神の意志がイエスを愛する者として、この世に送り出したのだ。その愛に基づいて、我々に語り続けるイエス。十字架の上から語り続けるイエス。このお方の言が、我々を命令の中に置く。掟の中に置く。我々が命じられたくないことの中に置く。この命令がなければ、我々は愛することはないのだから。我々が他者のために喜ぶことはないのだから。

イエスの愛が我々のうち生き、我々がイエスの愛のうちに生きるために、イエスは十字架を負われたのだ。このお方の愛が、我々のうちに生きるために、聖餐を設定された。我々が互いに愛することを生きるために、ご自身の体と血を与え給う。このお方の体と血が、我々のうちに入り来るとき、我々はキリストの喜びを受け入れるのである。キリストは、我々のうちに生きることを喜びとしてくださる。それゆえに、ご自身の体と血を与え給うのだ。このお方の喜びが我々のうちに生きる聖餐を通して、我々の喜びはイエスの喜び、他者のための喜びとなっていくのである。

今日、平和主日にいただく神との和解に基づいた平和がシャロームである。我々の喜びの充満がシャロームである。他者に与えることを喜ぶ喜びの充満。満ち満ちていることこそがシャローム、欠けのない状態なのである。この平和シャロームを生きるのは、他者のために喜ぶ神の愛のうちに生きている存在である。

共に、神のシャロームに与り、喜びの充満から溢れ出る神の愛の中を生きて行こう。あなたを通して、神が愛し給う。神が喜び給う。わたしは神を喜ぶ。わたしのために十字架を負われたイエスによって。

祈ります。

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