「イエスの必然」

2015年8月9日(聖霊降臨後第11主日)

マルコによる福音書6章6節b~13節

 

「どこでも、あなたがたが家に入ったならば、そこにあなたがたは留まりなさい。そこからあなたがたが出て行くまで。」とイエスは命じる。これは、当たり前のことを言っているようである。「出て行くまでは、そこに留まっている」ということは、当たり前である。「出て行くまで」ということは、出て行かない間は、そこにいるわけであるから、この当たり前の言葉を何とか理解しようと、「その土地から旅立つときまで」と訳してしまったのである。原文では「そこ」としか記されていないのだから、当然「そこ」とは「家」を指すと考えるべきである。留まるのは「家」だが、出て行くのは「土地」だと解釈しているのである。そのような区別はイエスの言にはないのに。

さらに、「その土地から旅立つときまで」と「とき」を付け加えて、旅立つときが来るのだ、そのときまでとイエスが語ったかのように訳している。しかし、「とき」という言葉はない。もちろん「まで」という副助詞は、時間的限界点を意味する場合もあるのだから、「とき」を補った方が分かりやすいとは言えるであろう。しかし、直訳して見れば、「あなたがたが出て行くまで」である。それは時間的な意味だけではなく、「出て行く」という事態をも意味している。時間と関係を含むが、もっと広い意味で限界点に達するまで留まるということである。もはやここから出て行くべきだという思いを神が起こすという必然的出来事が生じるまではとイエスは命じていると考えるべきであろう。この命令に従う者はイエスが神の必然に従って、派遣した命令に従うのである。それは、イエスの必然に従うことである。すなわち、イエスが十二弟子を呼んで、派遣しようとしたことは、イエスにとっては必然的な出来事であり、神がイエスにその思いを与え給うたのである。イエスは、神の意志に従って弟子たちを派遣するのだ。

この弟子派遣の際に、イエスが何も持たずに行くように命じるのは、ただ命じられたから行くのだという信仰の在り方を伝えているのである。イエスが神の必然に従って命じる命令に、ただ従う。自分がないと言えば、盲従のように思えてくる。しかし、信仰における従順は人間的判断を差し挟まない従順である。盲従と言われようとも、神の意志に従うということである。

では、神の意志はどこで分かるのか。従う中で分かるのである。我々が、これこそ神の意志であると判断していては、我々の判断になってしまう。神が、思いを起こし、実現し給う出来事はわたしの判断で生じるわけではない。わたしの判断は、わたしの出来事しか起こさない。わたしの成果しか残さない。わたしの栄光しか見せない。わたしの判断に従って、神の意志を判断することはできないのである。神の意志に従うこともできないのである。それゆえに、イエスは何も持つなと言い、神の必然があなたがたをそこから出て行かせるまでそこに留まれと言うのだ。これは、どうしても出て行かざるを得ないという事態が生じて、出て行く必然が起こるまでという意味である。

自分の宣教を受け入れてくれない地域であったとしても、まず受け入れてくれた家を変えずに留まること。しかし、どうしても出て行かざるを得ないということは、受け入れてくれても起こるものである。そのときには、情に流されずに、出て行くのである、神の必然に従って。

さらに、最初から受け入れないところだということもある。そのときは、無理して留まる必要はなく、出て行くのである。しかし、出て行かざるを得ないという思いに至るまでは、何とか宣教することを考えなければならない。それでなお、留まることができない場合には、その地域のほこりを払い落として出て行くようにとイエスは命じる。これは、受け入れられなかった恨みを残さないということでもある。心のほこりを落として、新たに始めることである。

我々は、いつでも心にほこりをため込んでいる。あの恨み、あの妬み、あの憎しみ。溜め込んで、溜め込んで、いつまでも持って歩く。そこから解放されなければ、新たに始めることはできないのに。新たに始めることができる人は、後ろを振り返らない。前に向かって、与えられた必然的思いに従って進んで行く。それが、悔い改めることである。

イエスは、十字架の上でほこりを払い落として、復活されたのだ。十字架には、我々の罪、我々の心のほこりが架けられている。あの十字架は、あとに残してきたもの。あの十字架は、我々の罪の足跡。我々の罪のほこり。それらすべてをイエスは引き受け、十字架に滅ぼしてくださった。だから、我々はほこりなき者。ほこりを払った者。浄められた者として新たに生きることができるのだ。罪に縛られることはない。あなたが如何に大きな罪を犯していても、如何に取り去れない恨みを抱いていても、十字架を見上げるならば、ほこりは払われる。新たなわたしを生きることができる。この恵みを与えるために、イエスは十字架を負われた。弟子たちが落としていったほこりを背負って、十字架に死んでくださった。このお方の十字架こそ、我らの誇り。我々を神の必然に従わせる十字架こそ、我らが誇るべき誇り。我々がイエスの必然を生きるようにと、十字架を負われたイエスに従って生きて行こう。我々の罪が如何に大きくとも、イエスの十字架に払い落とせない罪はない。拭い去れない罪はない。浄められない罪はない。イエスがすべてを負われたのだから。

弟子たちを宣教に派遣するイエスは、彼らのほこりをも引き受ける思いで派遣したのだ。あなたがたの心に降り積もっているほこりをわたしの上に払いなさい。わたしがすべて引き受けるから。わたしがすべて滅ぼしてあげるから。イエスは、そのように弟子たちを派遣したのだ。従って、弟子たちは必然的にイエスの十字架に従っている。十字架に支えられている。十字架に守られている。払い落とされたほこりは、すべてイエスが引き受けてくださっている。何も心配する必要はない。我々も、イエスに引き受けていただいた者。イエスが新たに遣わしてくださるのだ。あなたの新しい人生へ。あなたの新たな船出に。あなたの新たな道に。弟子たちが証するのは、イエスの派遣。イエスが派遣し、イエスが引き受け、イエスが負われた十字架。我々もイエスによって新たに歩み出すのだ、過去のわたしを払い落として。新たに、勇気をもって、歩み出すのだ。そのとき、我々はイエスの必然に身を委ねる。イエスが遣わしたのだから、イエスの従った必然が我々を包む。神の意志が我々を包む。神の意志が実現する。こうして、我々も、出会う人たちも、神の意志の必然に従って、自分自身を生きて行くのである。思い煩う必要はない。ただ、踏み出せば良いのだ。

如何なるときも、如何なる場所も、神の必然を生きる場所、ときとして生じる。如何なる人間であろうとも神が起こし給う思いに従うことができる。ただ、何も持たず、命令に従うならば、イエスの必然を生きることができるのだ。

我々に起こってくる出来事は、神の必然である。イエスの必然である。神の思いに従ってすべてはなっていく。この世界を生きるとき、我々は神の国に生きている。この地上にあっても生きている。神の意志に従って生きている。必然的に生きている。イエスが十字架の必然を生きられたように、我々も生きることができる。

あなたは、イエスに遣わされているのだ。この世界のどこにあろうとも、神の必然に従って生きるようにと。神に信頼して生きるようにと。如何に罪深くとも、神の必然を生きるようにと。悪霊は追い出され、病人は癒される。我々がイエスの必然に従うならば、必ず実現するのだ。我々も悪霊を追い出され、縛られているところから解放される。我々を苦しめる者を前にしても、神が備え給う食卓が与えられる。命のある限り、神が共にいまして、我らを神の宮に住む者としてくださる。

感謝して踏み出そう。神の道を。イエスの道を。十字架の道を。神が共にいます中を。わたしが派遣される必然を生きて行こう、イエスに従って。

祈ります。

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