「イエスの認識」

 2015年8月16日(聖霊降臨後第12主日)
マルコによる福音書6章30節~44節

「与えなさい、彼らに、あなたがたが、食べることを」とイエスは命じる。この命令は、イエスの命令だが、神の意志である。イエスは、神の意志としてこの命令を命じている。何故なら、群集を座らせた後、「天を仰いで、彼は褒め称えた」と記されているからである。「天」は神の意志が支配しているところ。洗礼の際に、イエス目がけて天から降下した霊をイエスは受けた。そのときからイエスは神の意志に従う生を行き始めたのだ。それゆえに、「天を仰いで、褒め称える」というイエスの行為は、神の意志を喜ぶという意味である。神の意志を認識すること、それがイエスの認識である。それゆえに、弟子たちに命じることも神の意志として命じているのである。弟子たちが神の意志に従うようにと命じるイエス。このお方の認識こそが我々を促し、主体的に生きる者としてくださる。このお方の命令がなければ、我々は自分のことだけで終始してしまうのだから。
「与えなさい、彼らに、あなたがたが、食べることを」とイエスが命じる言葉があったがゆえに、弟子たちは群集に与えることに従った。しかし、彼らがパンと魚を増やすことができるわけではない。イエスが神の意志を認識し、命じるがゆえに、神の意志が実現するのである。弟子たちはただ従うだけ。
与えるのは、神の意志。神の意志を認識したイエスの命令。しかし、神の意志を如何にしてイエスは認識するのだろうか。イエス自身のはらわたにおいてである。深く憐れむというはらわたに痛みを感じたイエスは、そこに神の憐れみを認識したのだ。神の憐れみは、神のはらわたである。はらわたに痛みを感じることが憐れみである。他者の痛みを自分のはらわたで感じること。それが神の憐れみである。従って、弟子たちがその憐れみを自分で感じ取るようにと、イエスは彼らに命じるのだ。「あなたがたが与えよ、彼らに食べることを」と。自分たちが与えるという主体性において、群集の痛みを感じなさいということである。さらに、与えようと思っても与えられない悩みを自分で感じなさいということでもある。弟子たちは、パンを買いに行かなければ与えられないと悩む。「わたしたちが買ってくるのですか。」と。この彼ら弟子たちの思いは、痛みというよりも面倒なことを押し付けられたという思いであろう。難題を押し付けられた弟子たちが、どこに解決を求めるべきなのかを、イエスご自身が示すのである。それが「天を仰いで、褒め称える」というイエスの行為である。褒め称えるという言葉は、ギリシア語ではユーロゲオーである。人間が神をユーロゲオーする場合は「褒め称える」であるが、神が人間をユーロゲオーする場合は「祝福する」である。従って、神をユーロゲオーするということにおいて、神の祝福をいただいた者として褒め称えているのがイエスなのである。神は我々を祝福してくださっているとの認識に基づいて、神を褒め称えることが可能となる。イエスの認識はそのような認識なのだ。
従って、弟子たちはイエスの認識に開かれるとき、真実に他者と痛みを共有することが可能となるのである。神を中心とした痛みの共有において、我々は神の祝福をいただき、神を褒め称えるのである。そのようなところへと弟子たちを導くために、イエスは今日、弟子たちにイエスの認識を与える。神は祝福しておられるのだと。
この認識は誰にでも開かれる。ただ、我々が受け取るならば。イエスの認識を信頼して、弟子たちがイエスから受け取り、配ることが生じたように。弟子たちがイエスの認識に信頼したがゆえに、彼らはイエスから与えられたものを配ったのだ。彼らは自分たちには不可能だと思える認識に至った。パンを買いに行くのだろうかと悩んだ。彼らは、群集が買いに行く労苦を引き受けなければならないところに立たされた。こうして、弟子たちは自分たちの力ではどうにもならないところに立たされたのだ。そのとき、「天を仰いで、褒め称える」イエスの認識に開かれた。我々を生かし給う意志を持っておられる神の意志があるということに。神の意志がなければ我々は生き得ないということに。神の意志に従ってすべては成るのだということに。神の意志の絶対的必然性によってすべては成る。神の意志を認識したがゆえに、イエスは弟子たちに命じた。神がはらわたを痛めておられることを認識したがゆえに、弟子たちに命じたイエス。イエスの認識は、神の支配への信頼の認識である。神が支配し給う世界は何者をも失わせることがない。何者をも養い給う。飼い主のいない羊など存在しない。何故なら、すべての存在の飼い主は神なのだから。
神の世界は、神が飼い主として、養い、育み、満たす世界である。神の支配は、神がすべての責任を負い給う世界である。神から、神を通して、神へと生きている世界である。この世界を認識するとき、我々に困難が生じたとしても神に信頼し続けることが可能となる。この世界の中で、我々は決して失われることなく、神の国へと向かって歩み続けるのである。神の国の中で、神の国を通って、神の国へと歩み続けるのである。神が造り給うた世界と造り給うた存在とは、すべて神のうちにあって生かされているのだ。この認識を開かれるとき、我々は主体的に、共に生きる世界を生きることができるのである。分かち合う世界を生きることができるのである。
イエスが弟子たちに命じたように、我々にも命じる。「あなたがたが与えなさい」と。人の痛みを知ったとき、「あなたがたがた与えなさい」との神の意志を聞く者とされる。「あなたが主体的に共に生きなさい」との神の意志が開かれる。そのとき、我々は弟子たちと同じように、ただイエスから与えられたものを配るというだけの存在として生きるのである。「わたしがしてあげる」、「わたしが施してあげよう」という自負は消え、「わたしは与えられたから与えるだけなのだ」という神の意志に従う従順が開かれる。
我々が主体的に生きるとは、自負することではない。神の意志に主体的に従うということである。従順を主体的に生きることである。わたしは配るだけの存在であることを弁えることである。配るだけの存在として主体的に生きることである。そのとき、我々の間には、与える者と与えられる者という上下の関係や支配の関係は生じない。共に同じ草の上に座っている者として生きるのである。イエスの認識に開かれた存在は、必然的に神の意志に従うのだ。
この認識へと開く出来事が「天を仰いで、褒め称えた」イエスの言と行為である。このイエスが十字架の上でも同じように「天を仰いで、神を褒め称える」イエスなのである。見捨てられたかに思える十字架の上で、イエスは最後まで神の意志を信頼し、褒め称えていた。神に信頼するがゆえに、「見捨て給うたのか。」と神に祈った。神の意志がなると信じるがゆえに、十字架を負ったイエス。誰も罵らず、誰にも罪を負わせず、自分が負ってやるとの自負もなく、ただ十字架を引き受け給うたイエス。十字架の上で、苦しめる者の痛みを体に受け続けたイエス。このお方が、神の意志を認識していたイエス。世界は神の意志に従って成ると認識していたイエス。イエスの認識においてこそ、世界は平和を認識する。イエスが十字架を負われたがゆえに、世界は平和を共有する。イエスが神を褒め称えるがゆえに、世界は神の祝福の下に生きる。褒め称えるイエスは、十字架の上から我らを祝福し給う。あなたが生きる世界は神の祝福の下にあるのだと。わたしが認識している世界をあなたがたは生きるのだと。十字架に死んでもなお、見捨てられることはないのだと、イエスはご自分の体と血を我らに与え給う。
我らはただ受け取る。そして、配る者として遣わされる。神の意志を配る者として遣わされるのだ。あなたが受けた神の意志の成る世界を隣人に配る者として遣わされる。イエスの体と血をいただき、イエスがあなたのうちに祝福を送り、祝福として生きてくださる。遣わされたところで、神の意志を信頼して共に生きて行こう。あなたの飼い主は神なのだ。イエスが認識した通り、神がすべてを満たし給う世界が開かれている、あなたの前に。
祈ります。

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