「イエスの綜合」

2015年8月23日(聖霊降臨後第13主日)

マルコによる福音書6章45節~52節

 

「何故なら、パンたちについて彼らが理解しなかったから。むしろ、彼らの心が固くなってしまっていたから。」と言われている。弟子たちの心の皮膚が石のように固くなっていて、何も感じなかったということであるが、物事の理解には柔らかな心が必要だということであり、反対するものも受け入れるのが柔らかい心だということである。「理解する」という言葉はスュニエーミという言葉で、「共に」と「送る」という言葉からなっている。「共に送る」とは、二つ以上の物事を「共に送る」のであり、それらが相反する物事であろうとも一つの事柄の現れとして受け入れ、綜合的に認識するということである。理解しない、あるいは理解できないということは二つ以上の物事を共に受け入れることができないということであり、心が固いのである。自分が持つ価値観に合わないことは受け入れない固さ。これが心の固さである。そのような心では綜合的な認識は起こり得ないのである。理解するということは、単に認識することではなく、綜合することなのである。一つひとつは理解できると思える。しかし、すべてが一つの事柄の現れであるということは理解できない。それぞれに偶然にあるだけだと考える場合、理解するということにはならないのである。従って、ここで語られている理解という事柄は綜合を意味しているのである。

我々も断片的には理解したかに思えることがある。しかし、これとそれは矛盾するという場合、分からなくなる。そして、一致することだけを認めるようになる。自分の持つ価値観に一致しないものは、無かったことにしてしまうものである。こうして、自分の持つ価値観に合うものだけで世界を理解したと思い込んでしまう。ところが、我々の世界は矛盾したものが相共に存在する世界である。神が愛しているのであれば、どうしてあの人が事故にあって死ぬのかということにおいても、自分が認める神の愛の平面的な理解によって、神は存在しないという結論を導き出すことにもなるのである。

今日の福音書においても、イエスが祈っているのであれば、イエスが強いて送り出したのであれば、弟子たちが反対の風に遭わずに無事に向う岸に着くはずではないかと、我々は考える。イエスの祈りによって守られているのではないのか。それなのに、弟子たちが反対の風に遭う。これは矛盾しているではないか。イエスは祈っていなかったのではないのか。弟子たちの安全を祈らなかったがゆえに、弟子たちが反対の風を受けたのではないのか。そう考えないと辻褄が合わないと思える。ところが、イエスは弟子たちのことを見捨てていなかったがゆえに、海の上を歩いて彼らのところに行くのである。これも先の結論には矛盾する。これをどう考えるのか。さらに、弟子たちのところに行きながら、「通り過ぎることを意志していた」のである。これまた矛盾する。通り過ぎるということは、やはりイエスは弟子たちのことは考えずに、自分が向う岸に行くために、海の上を歩いてきたのではないのだろうか。二転三転しているこれらの出来事に一致を見出すことは困難である。それゆえに、弟子たちはイエスを見て「幻影」ファンタスマだと叫ぶのである。実体のない存在が海の上にゆらゆらと浮かんでいると見たのである。ファンタスマ「幻影」と叫ぶ彼らの心が実体のないものとなっているのだ。

自分たちがイエスに従って懸命に働き、疲れているから、イエスが休ませようと彼らを先に送り出した。それなのに、反対の風に遭う結果となった。イエスは出てきた岸にいて、自分たちだけで海の上で死んでいくのではないかという恐れが生じる。イエスがいるはずはないのだから幻影だと思う。彼らの心が受け入れられないものを幻影とする。それが「心が固い」ということである。心が固いと受け入れないものがある。認めないものがある。反対のものは受け入れず、認めない。それゆえに、狭い世界の中で、反対の風に遭っていることが現実であると認識する。逆に、反対の風に遭っていることを幻影だと認識することもあるだろう。こんなはずはないのだと受け入れないこともある。現実に風が吹いているのに、気のせいだと思うこともある。それも幻影である。我々が認められることだけが現実だとすれば、この世界は矛盾しないことだけが現実になってしまう。我々が矛盾しているものに目をつぶり、受け入れないからである。受け入れないがゆえに、世界は偶然に支配されていると思ってしまうのである。

弟子たちは、反対の風に遭うことで、自分たちの世界が覆される思いにされた。それゆえに、今まで信じていたイエスが見えなくなった。イエスの愛を信頼できなくなった。イエスの愛が神の愛であることを信頼できなくなった。彼らは疑いの中で、偶然に翻弄される自分たちが現実なのだと思ってしまったのである。パンを食べたときは、幸せな時だった、神の祝福があった。今は、死にさらされている不幸な時で、神に見捨てられたと思う。この世界に振り回されている弟子たち。この弟子たちにイエスは言う。「勇気を出せ。わたしはある。恐れるな。」と。「安心しなさい」と訳されている言葉は「勇気を出せ」が原意である。イエスは、弟子たちが勇気を出して、反対の風に向かうことを促すのである。反対の風は起こる。しかし、風である以上止むときがある。勇気を出し、希望をもって、耐えるならば、風が止むときに至る。それでは偶然風が起こったのか。いや、必然である。

風が起こることも必然である。風が止むことも必然である。しかし、その中にあって、イエスだけは変わらずに「わたしはある」というお方なのである。それゆえに恐れる必要はない。わたしに信頼していなさいとイエスは弟子たちに語りかけるのである。我々に起こることも一瞬なのである。そのなかで、心が固くなり、受け入れず、うろたえてしまう。そして、さらに困難な状況を作り出してしまうものである。勇気を出して、わたしはあるというお方を信頼し続けるならば、すべては綜合へと導かれるのである、イエスによって。我々が反対の風に振り回されるとき、綜合は起こらない。イエスも幻影に見える。イエスに信頼できないからである。

我々の世界は矛盾するものが錯綜する世界である。神の世界は矛盾を抱え持つ世界である。我々には矛盾に思えても、神の意志は変わらずにあり続ける。神の世界は矛盾するものを包み込み、綜合へと導く世界である。我々の価値観だけが世界なのではない。反対する世界も世界である。そのような世界にあって、我々はただ神の意志に信頼することが大事なのである。神による綜合があってこそ、矛盾するものも存在しうるのである。対立するものも存在しうるのである。そうでなければ、我々が認める世界だけが世界だということになるのだ。それは神の世界ではない。神の意志が貫徹する世界ではない。我々の意志、我々の価値観が貫徹することはあっても、神の意志が貫徹することはない。悪人にも善人にも太陽を上らせ、雨を降らせる神の世界ではない。敵も味方も育み給う神の世界ではない。神は、我々人間の価値のどれか一つをご自分の意志とはなさらない。それらを総合する意志が神の意志である。イエスは、この世界を生きている。神の綜合の世界を生きている。それゆえに、海の上にあっても綜合するイエスがおられる。弟子たちの固い心にも関わらず、イエスが彼らのところへ行く。彼らを通り過ぎる意志は、彼らだけを助けるのではないということである。イエスが「わたしはある」ということに立ち続けるということである。通り過ぎるのは、イエスが綜合を生きているからである。そのイエスを受け入れたとき、弟子たちの舟にイエスが乗り込む。イエスが舟に乗り込むことで、綜合が彼らのもとに来る。イエスの綜合の中で、彼らは向う岸に着く。

神の意志は我々には理解できない。綜合的に受け入れることができない。しかし、綜合である神、綜合であるイエスは、我々を受け入れてくださる。あなたが受け入れられていること、生かされていることこそが、イエスの綜合、神の綜合の御業。十字架が指し示す神の世界である。この世界に信頼して、生きて行こう、イエスの綜合の中を。

祈ります。

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