「一般化的汚れ」

2015年8月30日(聖霊降臨後第14主日)

マルコによる福音書7章1節~23節

 

「人間の外から彼へと入っていくものではない、彼を汚すことが可能なるものは。むしろ、人間から出て行くものである、人間を汚すものは。」とイエスは言う。「汚れ」という言葉は、誰もが共通に持っている一般的なものという意味である。従って、「汚す」ということは一般化することである。このギリシア語コイノスの基本的意味は「汚れ」ではなく、誰にも共通のものという意味である。それがどうして聖書において「汚れ」を意味するのか。それは、聖なる民であるユダヤ人とは違うものを食べているギリシア人に代表される異邦人たち一般が食べるものは旧約の清浄規定に反するからである。それゆえに、異邦人は汚れていると規定される。そこには、一般と特別を設定するユダヤ教の清浄規定が影響しているのである。

ユダヤ人は自分たちが神の聖なる民であるから、一般的人間である異邦人たちが食べるものを食べないことで聖であることを生きると考えた。それゆえに、清浄規定はユダヤ人たちの守るべき聖を意味していたのである。従って、一般的な人間が汚れており、特別な人間が聖であると考えることにもなる。罪人とは、清浄規定を守らず、異邦人のようになっているのである。異邦人のような罪人は一般的人間として生きていることになるのである。

しかし、イエスはユダヤ人たちの偽善を指摘する。それが「コルバン」という言葉一つで「父母を敬う」ことをしなくても良いものとしてしまう言い伝えである。聖なる者としての規定を無効化してしまうのが、この「コルバン」の一言である。彼らが汚れていると言っている異邦人が一般であるならば、この一言も一般化する言葉である。人種的な特別枠があるがゆえに、自分たちは聖なる民であると自負できる。しかし、この特別枠を取り去るのだから、実は自分たちを一般化しているのだ。それゆえに、彼らが汚れていると考えている異邦人と同じところに立つのだとイエスは指摘している。

聖なる民である規定を守らなくても良いというコルバンの言い伝えによって、聖なる民から離れることを可能としているとイエスは言うのである。確かに、この一言でユダヤ人は異邦人と同じ位置に立つことになるのだ。聖なることを守らなくても良いのだから。この偽善をイエスは指摘している。ということは、イエスが偽善としているのは、守るべき戒めを無効化していながら、自分たちは聖であると自負している人間のことである。この無効化は、人間の都合によって神の意志を捨て去ることである。そのような捨て去りが生じるとき、特別枠を成立させる清浄規定は捨て去られている。律法を捨て去っているのに、律法を守っていると考えているおかしさをイエスは指摘しているのだ。これが一般化的汚れである。特別な規定を一般と同じにしているからである。人間を汚すものとは一般化する人間的意志である。

聖という事柄は、神のものとして一般的使用から分離することである。神的な事柄という特別な用途だけに用いるがゆえに聖であると言える。この聖であることを一般的使用に戻してしまうならば、汚れていると言われる一般と同じことになってしまい、聖なるものを汚すのである。

ファリサイ派の人たちは、自分たちが聖であるというところに立っている。聖であることを守っていると考えている。それは、自分たちの外側を浄めることによって聖であることを守るという考え方である。ところが、そのような人間が実は一般化を推し進めて、聖なる規定を無効化している。そのような意味で、イエスは「汚すことができるもの」を考えている。それが「人間から出て行くのもの」である。「人間へと入っていくもの」は汚すことができるものではないとイエスは言うのだ。

「人間へと入っていくもの」とは食物を意味している。だから、食物規定が禁じている食物が人間を汚すのではない。その規定を守るように語る神の意志、神の言がその人を聖なるものとするのである。神の言がその人に守らせる力として働き、従順を起こし給うからである。ところが、神の言を無効化して、従順から離れることを可能とするのが、コルバンの言い伝えである。神の言、神の意志に従わないことを可能にする言い伝えである。従って、人間から出てくるものとは神の意志を人間の都合に合わせて行こうとする人間の意志である。神の意志という特別な意志が、人間の都合である人間の意志に従わされ一般化される。こうして、異邦人と同じことをしていながら、神の意志を守っていると言い張る偽善。これがファリサイ派の人たちが行っていたことなのである。そのような人間から出てくるもの、人間の意志が人間を汚すのだとイエスは言うのだ。

では、人間の中から出てくるものによって汚されないためにはどうしたら良いのか。自分の意志に従わず、神の意志に従うことである。ところが、人間という存在は罪を犯したがゆえに、どうしても神の意志を無効化してしまおうとするのである。そこから抜け出すことは人間にはできない。おそらく「コルバン」の言い伝えも例外規定としての律法解釈である。ところが誰もが例外規定に従って、「コルバン」と言えば父母を敬わなくても良いということになった。例外規定が、誰でも共通のものに一般化されてしまったのである。言い伝えとは、時代や状況に応じた律法解釈例文集である。それを一般にしてしまうと、本来の律法が虚しいものになってしまう。例外が一般になるということはどこの世界においても起こっていることである。特別枠が一般に拡張されるのである。このような思考は我々の身近でも起こっている。先例があるから良いではないかと。これが一般化的汚れを引き起こす人間の罪である。そのような思考からは、本来の意味を守ろうとする立場は律法主義だと言われてしまう。イエスが言うように「人間から出てくるもの」が一般化して「人間を汚す」のである。むしろ、一般化すべきは我々人間の罪である。

ファリサイ派は自分たちは罪人ではないと考えている。聖であることは、自分たちを特別な存在とすることではない。むしろ、誰でも持っている共通の人間的意志が罪を犯すのであることを自分に当てはめることである。そのとき、我々は罪人を聖なるものとしたまう神の意志が聖とする力だと認めるであろう。我々人間から出てくるものは、我々を罪に陥れる一般化に導くものであることを認めるであろう。そのとき、我々は自らを罪人として認識し、神の前にただひれ伏すのだ。

我々人間は自らを汚す者である。自分自身が罪を増幅する存在である。わたしの内から出てくるものがわたしを汚す。そのような罪人が何を考えようとも罪だけが増幅していく。わたしの考えはどこまでも悪しか考えない。そのような存在が神に従順になることはない。アダムとエヴァの末裔なのだから。イエスを十字架に架けたのは、我々の罪である。一般化することを拒んだイエスを葬り去るのが十字架である。我々の都合に合せて、イエスを葬り去った汚れをイエスは十字架においてすべて引き受けてくださった。「淫行、窃盗、殺人、姦通、貪欲、悪意の実行、欺瞞、好色、悪意ある目、口汚い悪口、高慢、思慮の欠如」という悪しき考えをすべて十字架の上で引き受け、葬り去ってくださったのだ。十字架の御業によって、我々の内から出てくるものが葬られていることを信じること。それが信仰である。この信仰のうちに生かされている者は、自らの力では克服できない罪をキリストが十字架の上で克服してくださったことを感謝する。そして、自分の悪しき意志を捨て、自分の十字架を取って、イエスに従うのである。

あなたがたのためにその道を開いてくださったイエスは、ご自身の体と血を我々に与え給う。聖餐を通して、我々のうちに入り来るキリストの体と血が我々を聖なる者としてくださる。神の意志を受け取り、従う者としてくださる。我々罪人からは起こり得ない神への従順を生きる者としてくださる。感謝して受け、キリストに従って生きて行こう、神の民として。

祈ります。

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