「こどもの発見」

2015年9月6日(聖霊降臨後第15主日)

マルコによる福音書7章24節~30節

 

「まず、子どもたちが満腹することを許せ。何故なら、良くないから、子どもたちのパンを取ることは、そして、小犬たちに投げることは。」とイエスは言う。こどもたちが満腹するまで食べさせなければならないのだと言う。満腹していないこどもたちのパンを取ることは良くない。まだ食べたいと言っているこどもたちのパンを取ってはならない。まして、それを小犬に投げるなどとはもってのほかであるとイエスは言うのだ。従って、ギリシア人の女とその娘は、小犬だと言う。これは異邦人を蔑視している発言のように思える。果たして、イエスは異邦人を、ギリシア女を蔑視しているのか。

ここでイエスが使っている「こどもたち」という言葉は、親子関係における「こども」という言葉である。つまり、わたしのこどもやあなたのこどもという関係において使われるテクノンという言葉である。娘スュガテル、スュガトリオンという言葉も同じように親子関係における「わたしの娘」という言葉である。単に大人との関係における「こども」パイスもこの話の中で使われているが、それは28節と29節に出てくるだけである。他は親子関係における子どもと娘である。この親子関係における子どもと娘は、その子や娘の所属が表されている。わたしの子、わたしの娘という意味である。一方、パイスは一般的な「こども」という意味である。この言葉の方が、所属がない分広い意味で使われることになる。

イエスが最初に言う「こどもたち」テクノンは家という共同体におけるこどもであり、そこには親子関係と所属が現れているのである。従って、異邦人は別の家にいるのであり、イスラエルの家にいるわけではないと、イエスは言うのである。それゆえに、異邦人はイスラエルの家においては小犬と同じように人間として扱われていないことになる。しかし、イエスのたとえの中では、異邦人を表す小犬が家の中で、子どもたちのパンの欠片から食べることが示唆されている。まず、子どもたちが満腹しなければならないが、小犬はそれでも家にいるのである。いや、イエスのたとえにおいては、いまだ家の中にいる小犬かどうかは分からない。もしかしたら、家の外の小犬にパンを投げることは良くないと言っているのかもしれない。それでも、イエスがこどもにテクノンを使うことによって、家との関係における小犬が示唆されているとも考えられる。それゆえに、女はこの小犬を家の中の食卓の下に置くことができたのである。

食卓の下にいる小犬にしてしまったのは女である。しかも、ここでは一般的意味におけるこどもパイスが使われている。女はイスラエルの家の中のこどもというよりも、人種を超えたこどもとしてパイスを使ったのであろう。こうして、女が描く家はイスラエルの家というよりも、一般的家に変わり、イスラエル民族の親子関係における子どもではなくなった。大人とこどもという関係だけになったのだ。それゆえに、最後の29節では「床の上に投げ出されているこどもを発見した、そして悪霊が出てしまっている子どもを」と記されているのである。

一般的家庭における一般的こども、そして一般的小犬は食卓の下にいる。こうして、女の描く家は人種を超えた家を表すことになったと言えるであろう。それでも、自らを小犬にたとえている点は、彼女の謙虚さの現れである。それゆえに、「こどものパンの欠片から食べる」のが小犬であると言う。彼女は自らを小犬としたとすれば、満腹する「こども」とはいったい誰なのか。おそらく、彼女は自分の娘を満腹するこどもとしたのである。イエスが、「まずこどもたちが満腹することを許せ」と言われたのだから。イスラエルのこどもとしてのテクノンを一般的こどもパイスに変えて、一般化したのちに、食卓で満腹するこどもの欠片をいただく自分であるとしたのではないか。それゆえに、彼女は家に帰って、「こどもを発見した」と言われているのだ。彼女が発見したのは、ベッドの上に投げ出されていたこどもであった。悪霊がこどもをベッドに投げ出して、出て行ったのである。こどもは悪霊の支配から解かれて、投げ出されていた。この「こどもの発見」こそが、彼女が描いた家の中の満腹するこどもの発見である。

彼女は、自分の娘を発見したのではない。こどもパイスを発見したのだ。悪霊が神の世界の中に投げ出したこどもを。これによって、この子はギリシア人であっても神の世界の中に生きるこどもとして生かされたのである。小犬であるギリシア女が欠片をいただく「こども」として生きているわが娘。この子は、もはや女の娘ではない。神の子ども、神の家に住む子供として発見されたのである。

イエスは女を送り出すにあたって、「この言葉によって、あなたは行きなさい」と語った。この言葉とは、彼女がイエスに描いて見せた言葉である。この言葉は、いったいどこから来たのか。女の思いから出てきたのか。いや、イエスの言から出てきた女の言葉なのである。イエスの言が語られなければ、女の家は描かれなかった。イエスの言が、女にイメージを与えたのである。このイメージを受け取り、自らの言葉にして描いた女。彼女の描いたイメージの世界は、イエスの言に基づいている。それゆえに、単に彼女の思いなのではない。イエスの言が描いたイスラエルの家を、人種を超えた家として描いた女。イエスの言がなければ、その家も出現しなかった。とすれば、女のうちにイメージを与えたのはイエスである。イエスの言がイメージを開いたのである。その中には、一般的こどもパイスは使われていなかったが、女はパイスとして受け取った。そのこどもを発見した女は、発見する前にイメージを与えられていたのだ。イメージがなければ発見を発見として見出すことはないからである。

我々が発見するとき、それが発見したものであると認識するには、まずイメージがなければならない。イメージが何もないところで、発見はできないのだ。発見とは見出すことであるが、見たことも想像したこともないものは、探しに行くことさえできないからである。何かしら一致するイメージがあってこそ、発見したと認識するのである。そうであれば、女がこどもを発見したのは、娘ではなく神の子どもというイメージに従って発見したということである。そのイメージを与えたのは、イエスの言であった。それゆえに、女の発明なのではない。イエスが導いた神の世界なのである。

女は、こどもに十分食べさせたいと願った。娘が満腹するまで神の恵みを食べさせたいと願った。その願いが、自分を小犬としてまで、娘を家の中の子どもにさせたのではないだろうか。女が愛する子を、神の下に差し出して、神の子として発見した。愛する息子イツァクを神に差し出すアブラハムのように。そして、神の子として改めて子どもを受け取り、子どもを発見した。彼女が発見した子どもは、投げ出されているが、子どもそのものとして生かされている。彼女の発見した子どもは、彼女の娘、ギリシア女の娘なのではない。神の恵みを満腹させられた神の子どもである。

我々キリスト者も、自らを神の子どもとして発見した者である。我々も女と同じ異邦人であり、家の中にいなかったはずの者である。しかし、この女がイエスの言によってイメージを開かれたように、我々も神の子としてのイメージを開かれたのである。そのイメージは、十字架のイエスにおいて開かれたものである。十字架は異邦人による刑罰であり、イスラエル・ユダヤから切り離されている罪人の刑である。イエスは異邦人に引き渡され、処刑された。ユダヤ・イスラエルから切り離された。切り離されたがゆえに、すべての人間存在の罪を引き受けるお方となったのである。このお方によって、我々は人種を超えた神の子として生きることが可能となった。すべての者が神の子として、神の家に住むことが可能となった。この「こどもの発見」を更新するのが、イエスが与え給う体と血、聖餐なのだ。

今日もあなたは神の世界に生きる自分を発見する。イエスの体と血に与って、神の子として生きる世界を開かれる。あなたは神の家に生きているのだ。

祈ります。

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