「麗しい」

2015年9月13日(聖霊降臨後第16主日)

マルコによる福音書7章31節~37節

 

「麗しく、すべてのことを、彼は行ってしまっている。」と彼らは驚いて言った。彼らとは「人々」と訳されているが、不特定の「彼ら」である。誰たちなのかは分からない。しかし、イエスの許に「聞こえない人で話せない人」を連れてきた人たちである。彼らはその人の上に、手を置いてくださるようにとイエスに願った。それは癒しを願ったことである。しかし、イエスはその人を群衆から離れさせて、その人の耳に指を入れ、唾を手にして舌に触れた。群集が願ったことをイエスは行わなかった。耳と舌に触れたのである。頭に手を置くことはしなかった。彼らの願いは聞かれなかったが、イエスは彼らの願いの根幹を捕えて、実行された。それゆえに、人々は言ったのだ。「麗しく、すべてのことを、彼は行ってしまっている」と。

願い通りに行うことが麗しいわけではない。「麗しい」という言葉は、カロスというギリシア語である。この言葉は「良い」と訳されたり、「美しい」と訳されたりする。それは「麗しい」ということである。神の世界創造の際に、神が造られたものを見て「良しとされた」と言われている言である。「麗しい」とは「美しい」こと「良い」こと、すなわち調和が取れていることである。神の世界創造は調和の世界であった。すべてのことが調和し、麗しく生きていた。この世界を神は「良しとされた」、「麗しく生きている」と認められたと言われているのである。

調和とは、違うものが互いに妨げ合うことなく、それぞれに生かされていることである。調和していることは麗しいことである。誰でも、自分を生きることができるということは麗しいことである。誰でも、他者を生かすということは麗しいことである。「敵を愛せ」と言われたイエスは、敵対する者同士の愛を求めた。それが麗しいことであると。天の父の在り方であると。天の父は麗しさを生きている。天の父は麗しく生かし合う世界を造られた。神の世界は麗しいのだ。

自然の世界は、麗しく生きている。自分を他者のために差し出して生きている。互いに生かし合って生きている。自分だけが生きようとするのが人間の世界である。しかし、神の意志に従う世界は互いに生かし合う世界なのである。この世界から罪によってこぼれ落ちた人間は、自分の世界を守ろうとして、他者の世界を破壊する方向へ生きるようになってしまった。その世界に神はイエスを送り給うた。世界が調和して、麗しく生きるようにと送り給うた。

麗しく生きるとは神の秩序を生きることである。この秩序は、反対のことが互いに生かし合う世界である。聞くことと話すことは反対の事柄である。しかし、聞くことから話すことが生じる。聞かないならば、我々は言葉を知らないのである。親の話す言葉を聞くことで、こどもは言葉を知る。聞くことで言葉の使い方を知る。聞くことで言葉の伝える力を知る。こうして、我々は言語世界を生きているのである。話すことだけが言語世界ではない。聞くことがなければ言語世界を知ることはないのだ。聞くという受動があって、話すという能動が生じる。能動が始めにあるのではない。受動が始めにあるのだ。我々人間の言語活動は、神の語る言を聞くことにおいて始まったのである。アダムとエヴァは、神の言を聞いたのだ、最初の戒めの言として。聞くことから、彼らが話すことが生じたのだ。それゆえに、イエスはまず耳に指を入れる。そのあとで、舌に触れる。聞くことが開かれなければ、話すことも開かれない。我々が自分だけの世界を守ろうとするときも、他者の世界を駆逐しようとするときも、聞くことが始めにあるのではない。自分が話すことが始めにあるのだ。話すことから始めるがゆえに、駆逐することが生じる。調和は生じない。争いが生じる。他者の言を聞かないからである。

イエスは、人々の言葉、人々の願いを聞いたのだろうか。彼らが求めたように実行しなかったのだから、彼らの言葉を聞かなかったかのようである。しかし、イエスは聞いていたのだ。彼らの願いの根幹を。彼らの言葉の根幹を。その言葉通りに実行しなかったとしても、イエスは彼らの願いの通りに癒したのだ。これを見て、彼らは言う。「麗しく、すべてのことを、彼は行ってしまっている。」と。この現在完了が語っているのは、イエスの御業の完了だけではなく、麗しさの完了を意味しているのだ。完了している麗しさを見せられたのだ。これは確定している麗しさである。誰も覆すことができない麗しさである。

聞こえない人が聞き、話せない人が話すようになる。イエスの癒しは聞くことから始まる。他者の願いの根幹を聞くことから始まる。それゆえに、イエスは「深く息をつく」のである。まず、自らのうちに残っている息をすべて吐き出すのだ。吐き出して、何もなくなったイエスのうちに、仰いだ天から息が入ってくる。その息に押し出されて、イエスは言う「エッファタ」と。この「開け」というギリシア語は、何を開こうとしているのだろうか。聞くことと話すことである。聞くことと話すことの調和を開こうとしているのである。聞き、話す秩序の麗しさを開こうとしているのである。それも天からの開けとして開こうとしているのである。イエスが開くわけではない。天の意志が開く。神の意志が開く。イエスは神の意志である神の息を体中に受け取り、「エッファタ」という言葉を押し出す、神の息と共に。こうして、聞こえない人、話せない人が開かれた。人々が驚くのは、天の神の調和に従って、イエスが癒しを実行したことである。そこに神の秩序の麗しさを人々は見たのだ。受動があり、能動があると。

イエスは受動から始めた。そして、能動としての神の意志に従って実行した。受動がなければ能動はない。聞くことがなければ話すことはない。息を受け取ることがなければ、息を押し出すこともできない。これが神の秩序の麗しさである。この麗しい神の秩序に従うとき、我々は他者を生かし、他者のために生きることが可能となるのである。自分のうちに溜め込んでいる間は、麗しくない。自分のものを守る間は麗しくない。自分の中の息をすべて吐き出してこそ、神の息を受け入れることができるのだ。イエスが言う「自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従いなさい」とは、この麗しさである。自分のうちに溜め込むことを捨てて、自分のために与えられている十字架を取る。自分の受けるべきものを取る。そのとき、イエスに従うことが可能となるのである。イエスもまた、天の父の秩序に従って、この癒しを行った。麗しく行った。これが今日、我々に示されていることである。イエスが行ったように、我々も自分の息を吐き出そう。自分が溜め込んでいるものを吐き出そう。何もない自分であるところから始めよう。何者でもないわたしのうちに、神の息を受け入れよう。そのとき、我々は神の意志に従って、イエスに従う生を生きることができるのだ。

自分から始めてしまうわたしを捨てること。それが、イエスが「天を仰いで、深く息をついた」ということである。我々は天を仰がない。天の麗しさを、神の麗しさを仰がない。それゆえに、わたしは罪に支配されるのである。下を向いて、自分を守ろうとするがゆえに。自分は何も失うまいとするがゆえに。それゆえに、我々は敵を愛することはできない。他者を生かすこともできない。自分だけの世界を守ろうとして、世界を破壊してしまうのである。世界が破壊されているのは、我々の所為なのだ。この愚かなわたしの所為なのだ。この世界が罪に支配されているのも、わたしの所為なのだ。それゆえに、わたしは聞こえない人、話せない人となってしまっている。そのわたしを、群衆から離して、向き合ってくださるのはイエスである。

あなたが聞くことができるように、イエスは十字架を引き受けられた。あなたが話すことができるように、イエスは十字架から語ってくださる。神の意志を聞かず、自分のことばかりを追求していたわたしの耳を開き、正しく話す舌を与え給うたイエス。十字架の主は、我々を罪の縛りから解放し、開いてくださる。「エッファタ」と何もなくなったわたしに息を吹き込んでくださる。麗しいイエスの御業の中を生きて行こう、神の息を受けて。

祈ります。

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