「根本的救い」

2015年9月20日(聖霊降臨後第17主日)

マルコによる福音書8章27節~38節

 

「彼について、誰にも言うな」とイエスは弟子たちに言う。「彼について」と言う。彼とはイエスのことである。「ついて」とはペリというギリシア語の前置詞で「周辺に」が基本的意味である。従って、イエスはこう言っているのだ。「彼の周辺について、誰にも言うな」と。これは何を意味しているのであろうか。イエスの周辺とは一体何か。それを誰にも言うなと何故いうのか。これはイエスが弟子たちに問うた「人間たちは、わたしを何者と言っているのか。」という言葉にも現れている。「何者か」ということは、一般的誰かであって、自分との関わりは必要ない。それは人間の周辺的事柄である。イエスが何者であろうとも、わたしと関わりがあるわけではない。客観的に「洗礼者ヨハネである」とも「エリヤである」とも言うことは可能なのである。それは、イエスが自分とどのような関わりにあるお方であるかということではない。一般論として語ることができるものである。一般論だから、自分は周辺に留まることができる。イエスの周辺的な事柄を云々することは、イエスの周辺に留まるということである。その人は、イエスとの関係は結ばないままに留まる。いや、結べないままに留まる。それゆえに、イエスは弟子たちに言うのだ。「彼について、彼の周辺のことを誰にも言うなと」。それは単なるうわさ話で終わってしまうからである。

ペトロの信仰告白だと言われる「あなたはクリストスです。」という言葉も、結局「何者か」ということでしかない。むしろ、「どのように生きるのか」が問題なのである。ペトロが、弟子たちが、そしてわたしが如何に生きるかが問題なのである。では、イエスはそう問えば良かったのではないのか。イエスが「わたしを何者と言うか」と問うがゆえに、弟子たちは「クリストスです。」としか答えられないではないか。いや、イエスは「あなたがたは」と問うている。それは「あなたがたにとって、わたしは何者なのか」という問いである。それゆえに、一般論ではなく、「あなたはわたしの救い主です。わたしのクリストスです。」と答えるべきなのである。そう答えられなかった弟子たちには「彼について、誰にも言うな」とイエスは言うのだ。

確かに、イエスと自分との関係を誰かに言うということはあり得ないのだ。一般論ではないのだから、自分がイエスをクリストスだと信じ、関わっているのだと言うしかない。そう言えば、どうしてそう思うのかとの証拠を示すように求められることはないであろう。むしろ、一般論で答える方が、その理由を示すように求められるのである。一般的論証として。そして、不毛の議論に巻き込まれるだけである。反対に、自分にとってクリストスであると言うならば、その論証は求められないであろう。クリストスではないと思っている存在からは「愚か者」と思われるか、どうしてそう思うのかと尋ねられるだけである。しかし、その人はあなたがそう思うのだということで終わる。一方、クリストスであると思っている存在には同意されるであろうが、それだけである。「そうだ、あなたもそう思うのか。わたしもそう思う。」と、これも一般論に終わる。一般論であれば、信仰を与えられた者同士という関係も築かれることはない。話すだけで終わるのである。ところが、「わたしにとってクリストスである」という告白を自分も信じている者が聞くとき、キリストに結ばれた存在として証しし合うことになる。そのとき、互いの信仰を確認することになり、キリストにおいて一致することになる。

イエスは虚しい議論をして欲しくないのだ。弟子たちには、自分との関係に入ってほしいのだ。そして、互いに励まし合って、ご自分に従って欲しいのだ。それゆえに、「あなたがたは、わたしを何者と言うか」と問うのである。この問いを正しく認識していないがゆえに、単なるキリスト告白で終わるのである。キリストとわたしとの関係に入れられた者は、キリストと同じように生きるのである。それが、信じる者にイエスが求めることなのである。「自分を捨て、自分の十字架を取って、わたしに従え。」と。これが、イエスが求めていることなのである。

自分を捨てること、自分の十字架を取ること、それがイエスに従うことである。それは、周辺的事柄ではない。一般論ではない。根本的事柄なのである。わたしの救いの根本的事柄。わたしの根本的救いなのである。イエスとの十字架における関係に入ることがわたしの根源的救いである。その関係に入る者は、覆すことのできない救いに入るのである。それゆえに、イエスとの関係を生きることが求められる。根本的救いは、周辺的事柄に懸命になっている輩には理解不能である。キリストとは誰かと議論している輩には理解不能である。キリストとの関係に入るには、まず確かな証拠が必要だと思うからである。確かな証拠を手に入れれば、わたしも信じても良いと思うからである。しかし、誰かとの関係に入るのに、確かな証拠を手に入れてから始める人はいないのだ。それは直感のようなもので、結ばれる者同士が結ばれるのである。キリストとの関係は、キリストに結ばれる者が入るものである。それゆえに、イエスがキリストであると誰かに言ったとしても、聞いた人がキリストに結ばれるわけではない、その人がキリストに結ばれる者でなければ。そうであれば、我々が語る言は一般論ではない。わたし自身のキリストとの関係である。そのとき、理解する者は理解する。聞く者が聞く。信じる者が信じる。それゆえに、イエスは誰にも言うなと言う。イエスについての周辺的話ならば、誰にも言うなと。むしろ、あなた自身がイエスとどのような関係にあるのかを生きるべきなのだ。イエスに従って生きることにおいて、あなたの存在が語ることこそが、信仰告白であり、証である。

誰にでも言えることは、わたしの信仰告白とはならない。信仰告白は、すべての人の前で告白するのだが、キリストの前で、神の前で告白するものでなければ、告白できないのである。口の告白ではないからである。わたしがイエスをキリストと信じているならば、わたしはいろいろ言う前に、イエスに従うのである。自分の十字架を取って、従うのである。苦難を引き受けて、従うのである。それが根本的救いに入れられている者の在り方である。根本的救いに入れられているならば、イエスに従うという生き方、如何に生きるかということが重要だと分かるであろう。イエスの生き方に従うことが重要なのだと分かるであろう。イエスがキリストであると議論することは、誰にでもできる。しかし、イエスに従うことは信じる者にしかできないのである。根本的救いは、イエスに従う生の中に溢れているものである。精神的に安定するというような救いはない。わたしの人生全体が神の支配に服するということが根本的救いである。そのとき、わたしの人生は神の支配によって守られている。それゆえに、自らが負うべき十字架を取ることができる。それゆえに、自らが苦難を引き受けることができる。それゆえに、如何なる状況にあろうとも希望をもって生きることができる。これが今日、イエスが弟子たちに求めることである。そして、我々に求めることである。

あなたが、イエスとの関係に入るのは、誰かが論証したからではない。あなたが信じる者とされたからである。あなたが神によってイエスに結ばれたからである。イエスのうちに入れられたからである。この神の働きの中で、我々は信じる者として生きることができるのである。この根本的救いを与え給うのはキリストであり、神である。キリストの十字架を救いであると論証するのではなく、救いであると信じるならば、キリストが負われたように、自分の十字架を取って、イエスに従うのである。それだけが、我々の救いの証なのだ。

イエスは、そのような証を求めておられる。イエスに従うことを求めておられる。我々は、口で告白するのではなく、わたしの人生全体でイエスに従うのである。それこそがキリスト告白である。そのとき、我々は自分の人生でキリストを告白し、証ししている。そのように生きる者をキリストが恥じることはない。その人を受け入れ、根本的救いを与えてくださる。このお方に従って行こう。

祈ります。

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