「神を抱く」

2015年9月27日(聖霊降臨後第18主日)

マルコによる福音書9章30節~37節

 

「そして、こどもを彼は取って、彼らのただ中に彼を彼は立たせた。そして、彼を腕に抱いて、彼らに彼は言った。これらのこどもたちの内の一人を、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れている。わたしを受け入れている者は、わたしを受け入れているのではなく、むしろわたしを派遣した方を。」とイエスは言う。こどもを腕に抱くことを「こどもを受け入れる」ことと言う。さらに、「わたしを受け入れている」とも言う。そして、「わたしを派遣した方を」受け入れているのだと言うのである。つまり、「こどもを抱く」ことが「受け入れる」ということであり、「神を抱く」ことであるとイエスは言うのだ。

どうして、「こども」が「神」と同じになるのか。それは「こども」という存在を在らしめているお方を受け入れることだからだという理由である。それが「わたしを派遣した方」を受け入れることと語っていることと一致している。つまり、こどもを受け入れることはイエスのようにこどもを腕に抱くことであり、神を抱くことであるとイエスは語っているのである。どうしてそうなのかは、こどものうちに働く神をこどもを抱くように抱くことにつながるという理由によるのだ。

「こども」というこの地上でいちばん小さな存在を受け入れることとこの世界の創造主を抱くこととが同じなのだと言うのだ。それは「こども」を生かす神はこどものうちに生きているからである。そして、こどもを包んでいるからである。さらに、こどもは神が在らしめている存在だからである。それゆえに、こどもを抱くことが神を抱くことと同じように語られるのである。これは汎神論ではない。神を受け入れるのは、「わたしの名のゆえに」こどもを抱き、受け入れることだと言うのだから、こどもが神なのではない。イエスの名のゆえにそうすることだからである。何もなくとも、こどもが神であるとするのであれば汎神論に陥ってしまう。しかし、イエスの名という媒介を通して抱き、受け入れるのだから、「イエスの名」がこどもと神とを同じように抱くことにつながるということである。

しかし、どうしてこどもを抱くこと、こどもを受け入れることをイエスは求めるのであろうか。弟子たちが、誰がより大きいかと議論していたことを知ったからである。より大きい存在になることを求めていた弟子たちに、「仕える」ということを語った。より大きな存在は「仕える」存在であるということである。そして、より大きな存在であるならば、最も小さな存在に仕えるべきなのだと子どもを抱いた。こどもを抱き、受け入れることが、より大きな存在であるとイエスは言うのだ。

我々は、この逆を考えてしまう。「仕える」よりも「仕えられる」存在がより大きいのだと。しかし、イエスはその逆を語る。小さな存在に「仕える」ことがより大きな存在なのだと。この小さな存在に仕えることが、神に仕えることにつながるのである。何故なら、神が小さな存在を在らしめているのは、「仕える」ことがいのちを大切にすることだからである。我々は小さな命を大切にするために、こどもを抱く。それは、神のいのちを抱くことである。そして、神を抱くことである。これが「仕える」ということだとイエスは言うのだ。

神は、我々のいのちを抱いて、仕えてくださっている。神が我々のいのちを守るために、抱いてくださっている。その神の意志を生きること、神の意志に従うことが、こどもを抱くことだとイエスは言うのだ。それは、イエスご自身の十字架が指し示していることなのである。イエスは、この地上で最も小さないのちも失われないようにと、ご自分のいのちを十字架に献げてくださった。イエスが献げたいのちは、小さないのちに仕えるいのちである。ご自分の十字架を目指しながら、今日イエスは弟子たちに求めるのだ。こどもを抱くことを。神を抱くことにつながるのだと。

では、神を抱いた人間はどうなるのであろうか。神の意志を守ろうとして抱いているのだから、神の意志に従うのである。神を愛する存在は、神を抱く。神の意志を抱く。神の愛を抱く。そして、神の意志に従い、神の愛によって生きる。わたしが抱いたいのちがわたしを生かすいのちである。それゆえに、イエスが抱いた地上のすべてのいのちがイエスを生かすいのちとなっているのだ。地上のすべてのいのちは神のいのちである。それゆえに、イエスは地上のすべての神のいのちを十字架の上で抱き、ご自身が生かされるいのちをいただいたのだ。

我々が抱くいのちは、我々を生かすいのちである。我々が抱く神は、我々を生かす神である。我々が抱く小さな存在は我々を生かす存在である。こどもたちは、我々を生かす存在、神のいのち。神ご自身を抱くことと同じなのである。神ご自身を抱いているならば、我々は抱いている神に生かされている。生かされているがゆえに、抱いている。抱き、生かされるいのちの交流が、神とわたしの間に成立する。こうして、わたしは小さな存在に仕えながら、神を抱き、神のいのちを生きるのである。

我々大人は、小さな存在を腕に抱くことで力を得る。小さな存在であるこどもを抱くことで、我々大人は生きる力を得てきたではないか。それは、まさに神を抱くことであった。神のいのちを抱くことであった。小さな存在に仕えるわたしが小さな存在に力を与えられて生かされている。これは不思議なことである。大人がこどもを守るのではない。こどもが大人を生かす。神がわたしを生かすように、小さな存在であるこどもを抱くわたしが生かされる。こどもたちがわたしたちを生かす存在である。そうであれば、我々大人はこどもたちよりも大きな存在であるとは言い難い。むしろ、こどもたちに生かされている小さな存在が大人なのではないのか。この逆転を認識するとき、我々はこどもたちを抱きつつ、神を抱き、神に抱かれていることを知るのである。地上の最も小さな存在が、身体的に、年齢的に大きな存在を生かしている。そのような存在に「仕える」ことで、我々は生かされるのである。イエスが弟子たちに語ったのは、そのような逆転した在り方である。従って「仕える」者は生かされる者である。「仕える」者は「仕えられる」者である。小さな存在に仕えられている者である。この逆転した事実に目覚めるならば、我々大人はこどもに仕えることを喜びとするであろう。小さな存在に仕えることを喜び生きるであろう。互いに仕えることを必然的に生きるであろう。このように生きる存在において、神の意志は抱かれている。このように生きる存在において、神のいのちは抱かれている。神は抱かれて生かすお方である。生かされるためには、生かされることを受け入れる必要があるからである。受け入れていないものに生かされることはない。小さな子供を受け入れていなければ、自分自身さえも拒否していることになる。何故なら、わたしも小さなこどもだったのだから。わたしも受け入れられてはぐくまれたのだから。同じように小さなこどもを受け入れて生きるとき、我々は自分自身を受け入れているとも言えるであろう。そのとき、我々は神を抱いているのである。わたしという存在のうちに働いておられる神を。

こどもを抱いて、神を抱く。こどもに仕えて、神に仕える。こどもに生かされて、神に生かされる。イエスの名のゆえに、神に生かされる。これが、十字架が与える信仰なのである。我々が仕えていると思っているお方に仕えられていることを忘れてはならない。我々が仕えていると思っている小さな存在に生かされていることを忘れてはならない。我々の認識とは逆転した認識が十字架が開く世界である。神を抱くとは、この逆転した認識を抱くことである。そして、抱いた神に生かされることである。こどもたちが我々を生かすように、他者に仕えることはわたしが生かされることなのだとの認識に開かれるならば、我々は誰にでも喜んで仕えるであろう。こどもたちに仕えることができる存在は、如何なる存在にも仕えることが可能なのである。こうして、世界は互いに仕える世界として開かれて行く。神を抱き、神に抱かれているわたしを生きて行こう。

祈ります。

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