「塩火」

2015年10月4日(聖霊降臨後第19主日)

マルコによる福音書9章38節~50節

 

「あなたがたは持ちなさい、自分のうちに、塩を。そして、平和でありなさい、互いのうちに。」とイエスは最後に言う。自分たちに従わなかった人たちが行っていることを止めさせた弟子たち。それは自分たちに従わせることであった。イエスの名において悪霊を追い出している人は、イエスに従っている。それなのに、弟子たちは自分たちに従うようにと求めたのである。これは間違いである。イエスに従うことと弟子たちに従うこととは違う。それゆえに、イエスは弟子たちに止めさせるなと言うのだ。弟子たちは、自分たちが主導権を握りたかっただけなのだ。これが人間の罪である。イエスに従っている人間の従う思いは、神が起こし給うた。神が起こし給うた思いを人間が押さえつけることはできない。止めさせることもできないとイエスは言うのである。続いて語られている「つまずき」についての言葉は、このイエスの意志から考えなければならない。

神に従うこと、イエスに従うことから人間を引き離す存在。いや、神に従わせず、人間である自分に従わせようとする存在は悪魔と同じである。悪魔は自分に従わせるために働いているからである。しかし、イエスは人間が神に従う存在となるようにと働いている。悪霊とイエスの違いはここにある。それは「何のために生きるのか」ということの違いである。

悪霊は人間が「自分のために生きる」ようにと導く。イエスは人間が「神のために生きる」ことを求める。それが「イエスの名において」生きることである。新共同訳で「悪口」と訳されている言葉は「悪しく語る」という意味である。イエスの名において生きている存在はイエスの名を悪しく語ることはない。さらに、イエスの名において生きているのだから、自分のために生きているのではない。病者のため、困っている人のために生きるのでもない。神のために、イエスの名において生きるのである。

我々は他者のため、病者のため、困っている人のために生きることは良いことだと考えている。しかし、それは結局人間のために生きることである。我々は神のために生きるとき、病者のために祈り、他者のために祈る。その祈りは、彼らが神の恵みを正しく受け取って生きることができますようにと祈るのである。他者が神に従うようにと祈るのである。そうでなければ、魔術的な癒しに陥ってしまう。祈ってくれれば癒されるとか、元気になるとか考えてしまうのである。これは、祈りを人間のために使うやり方である。これでは、人間は救われないのだ。確かに、正しく祈る人間の祈りは他者を支えるであろう。他者を癒すであろう。その祈りを通して、相手が神の恵みに目覚めるがゆえである。その人が神に従うように導かれるがゆえである。神を信頼して、苦難を引き受けるがゆえである。そのとき、使徒パウロが言うように「キリストの受難の溢れ出し」がその人を通して溢れ出す。そして、別の人へとキリストの受難が溢れ出していくのである。こうして、我々はキリストの受難の溢れ出しによってつながれ、癒され、神に従う者として生きることになるのである。このような祈りが必要である。わたしが神に従うように生きるための祈りが必要なのである。

それゆえに、イエスは手足と目を切り捨てることを勧める。それらは二つあるがゆえに、そういうのであろうか。一つでも大丈夫なのだと。いや、二つで一つの役割を担っているのが手足と目である。二つで一つの役割を担っている手足と目は、片方だけになれば、不完全な役割しか果たせない。それでも良いのだとイエスは言うのである。手足と目が自分のために使われ、自分のために生きることへと向かって行くならば、片手、片足、片目になっても、神に従う生き方を求めよと。神に従うならば、片手、片足、片目であろうとも、神がすべてを補い支えてくださるのだということである。そのような生き方を求めるイエスは、どこまでも神に従うことを求めている。そして、ご自身に従うことを。イエスの十字架に従うことを求めているのである。

そのために「塩」が「火」の役割を行うのだと最後にイエスは語る。「火」は浄める。「火」は精錬する。「火」は善きものだけを残す。悪しきものは消え失せる。そのような「火」は「塩味」をつけるのである。「塩」も同じように浄める。「塩」と「火」とが神の浄める働きに仕える。しかし、「火」は神のものであるがゆえに、「塩を自分のうちに持て」とイエスは言うのである。神の「火」によって、我々は自分のうちに「塩」を持つことができるとイエスは言う。地獄の火、ゲヘナの火が消えないことを語るイエスは、地獄に落ちて我々は浄められるのだと言うのである。しかし、そこに行かなくて良いように、塩を持てと言うのだ。火で味付けられた「塩」を持っているならば、我々は一つの手足や目であろうとも正しく生きることができるのである。それゆえに、自分の手足や目にこだわることなく、むしろ神に従うことを求めよとイエスは言うのだ。それゆえに「塩を持て」と求めるのだ。「塩の火」こそが我々が神に従うことを実現する十字架なのだ。

十字架は自分のために生きない。他者のために生きているようであるが、神のために生きている。神に従って生きている。使徒パウロが言うように、「死に至るまで、神に従順であった」キリストの十字架なのである。それは異質な存在を受け入れる十字架である。それゆえに、イエスは今日も言うのだ。「塩を持て」と。「塩」が自分自身を浄めるのではあるが、焼き尽くす「火」ではなく、生かす「塩」を作り出す「塩火」をイエスは求めているのだ。この「塩火」の機能は「浄め」である。自分の内なるものが浄められることで、他者との間で平和であることが可能となる。自分の内なるものの浄めは、聖霊によって与えられる。聖霊がイエスの十字架の真実を開き示すことによって、我々は自らの罪を知る。罪を知った存在は、自らが人間として悪であることを知るのである。そのような存在が、自分に従うことはない。自分に従えば悪しか行わないことを知っているからである。それゆえに、そのような存在は神に従うことを求めるのである。神に祈るのである。わたしの内なるものが浄められ、神に従う者でありますようにと。そのとき、我々は神に祈りを与えられ、祈らされているのである。こうして、我々の内なるものがキリストの十字架によって浄められることになる。これが「塩の火」なのである。

我々人間は悪しか行わない。わたしは悪である。神に従わず、自分に従う。自分よりも強い者に従う。自分が排除されないために、他者に従う。神に従うことが求められても、目に見える人間に従う、神は働いているのかどうか分からないと。こうして、自分で神に反することを求めてしまうのである。このような存在は塩を持っていない。塩火に味付けられていない。味付けられていないので、自分を制御することもできない。もちろん、人間は自分を制御できないのだ。ただ、神だけが制御し給う。この神の働きを信頼する者は自分を悪しき者だと認識している。それゆえに十字架という塩火を内に持っているのだ。内的人間が神に従って生きているのだ。我々は、このような人間とならねばならない。しかし、自分からはなり得ない。神に信頼するとき、神を信じるとき、我々は神に祈る。この祈りにおいて、内的人間が神に従っているのである。神に従うことはわたしからは生じない。神から生じる。神がわたしを従う者としてくださる。自分を捨てるということは、神がわたしを従う者としてくださると信じることである。信じるとき、自分を捨てている。自分で確かめて信じようとするときには自分を捨てていない。それゆえに、キリストの十字架を起こした自分を認めていない。我々はキリストの十字架を起こした張本人なのだ。この自己認識に至るとき、我々は塩火を持っている。自己を弾劾し、自己に絶望し、希望である神に生きている。このために、キリストは今日もご自身の体と血を我々にくださる。あなたのうちにキリストが形作られるようにと、我々にくださる。キリストの恵みに感謝しよう。あなたを神に従う者としてくださるのだ、キリストの体と血が。わたしのうちに塩として生きてくださるキリストによって、生きて行こう。

祈ります。

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