「全体的受容」

2015年10月11日(聖霊降臨後第20主日)

マルコによる福音書10章1節~16節

 

「彼らを腕に抱いて、彼は激しく祝福した、彼らの上に手を置いて。」と最後に言われている。単に祝福したのではなく、祝福の激しさを表す接頭辞が付いた言葉が使われている。激しく祝福するということには、弟子たちの分からなさに対する激しい怒りが反映している。もちろん、怒って祝福することはないので、祝福の強さの強調である。こどもたちの姿に対する無理解や排除の論理を怒るイエスは、この前の議論から続く大人の無理解と排除の論理を嘆いているのである。この前には、離縁状の問題が取り扱われていた。そのような状況の中に、こどもたちを祝福してもらおうとイエスの許に連れてきた人々がいた。離縁状の問題は大人の問題であり、そのような議論をしているのに、こどもを連れてくるとは場違いであると感じたのであろう。弟子たちは、彼らを叱った。ところが、イエスは弟子たちのその在り方に憤りを覚えたのである。どうしてなのか。

こどもたちは、大人の場所に入ってはならないとする大人たちに対して、いつでもこどもたちを受け入れるようにとイエスは勧めるのである。それは人間として如何なることも受け入れることを意味している。こどもを別枠に考える思考には、排除の論理が働いている。こどもに聞かせられない話をしていると思うがゆえに、こどもたちを排除する。聞かせられない話などしなければ良いのに。大人たちは、そのようにして、こどもたちを排除して、「これは聞かせられないから」と言う。しかし、聞かせられない話は、実は誰にでも聞かせられない話なのである。彼らが考える聞かせられる話は、当たり障りのない話である。良い人間の振りをすることができる話である。自分のかたくなな心を指摘されないような話である。そのような話は子どもに聞かせても良いが、自分の悪い心が指摘されるような事柄は聞かせられないと考える。こうして、実は自分自身が人に聞かせられない話をしていることを知っているのだ。他者の悪口も同じである。大人は自分たちが悪口を言っていながら、こどもには「人の悪口はいけませんよ」と言う。悪口を言っているところに、こどもがやってきたら、途端に口をつぐむ。これは、イエスが批判した律法学者やファリサイ派の人たちの在り方と同じである。自分たちは律法を守りやすいように骨抜きにしているのに、律法を守らないとイエスや弟子たちを批判する。誰に対しても、どんなときも、同じようにあることはできないのが、大人である。ファリサイ派と律法学者たちも同じである。結局、表面的な在り方と内面的な在り方が分離しているのである。これに対して、イエスは怒るのである。

それゆえに、こどもたちを腕に抱いて、激しく祝福したのだ。この子らが、あの大人たちのようにならないようにと激しく祝福したのだ。イエスのこどもたちへの思いが込められた祝福であった。そのこどもたちがありのままにイエスに向かってくることをイエスは受け入れ給う。そして、こどもたちのように受け入れることこそが、神の国に入る術なのだと言う。外面と内面が分離している存在に対して、全体的に受け入れることを教えるのである。

我々大人は分裂した存在である。こどもたちは、外面と内面などという分裂を来さないのである。だから、どこでも本当のことを言って、親から口をふさがれるのもこどもたちである。外面と内面を分離したように生きるために、モーセが仕方なく設定した戒めが離縁状を書けば離縁できるという掟である。イエスはこう言っている。「あなたがたの心の固さに対して、モーセはこのような掟を書いたのだ」と。心の固さと言われているが、これはエレミヤが言う「うなじの固さ」と同じことである。エレミヤがそう言うのは、首の後ろの筋が固くなって、頭を前に垂れることができない人々のことである。すなわち、神の言に素直に頭を垂れることができないのである。それは神の言への服従ができないということである。それゆえに、仕方なく掟を書いたモーセなのだと、イエスは言うのだ。これと同じことが「固い心」というイエスの表現である。心が固いので、何も受け入れないのである。心が固いので、自分の主張だけで、人の主張には耳を傾けない。だから、神の言など受け入れるはずがない。自分の悪を指摘する神の言など受け入れないのだ。神の言の前に頭を垂れることはない。こうして、神の言を排除するのである。では、このような大人が如何にすれば変わりうるのか。「こどものように」とイエスは言う。

「こどものように、神の国を受け入れるのでなければ、誰もそこに入ることはできない。」と。受け入れることが入ることだというのである。受け入れるとき入っているということである。受け入れないとき入っていない、もちろん排除しているからである。受け入れるとき入っている、全体的受容の状態にあるからである。それは、受け入れるとき、受け入れられているということである。受け入れられているがゆえに、受け入れているということでもある。その姿が「こどものように」と言われているのだ。

こどもたちは全体的に受け入れているのだろうか。生まれたての赤ん坊はこの世界を全体的に受容している。しかし、大人の対応によって、排除の論理を認識する。そして、排除されることを通して、自分も排除するように導かれるのである。それゆえに、イエスの言は二つの方向から理解すべきである。一つは「こどもが神の国を受け入れるように、あなたがたも神の国を受け入れなさい」という方向である。もう一つは「神の国がこどもであるかのように受け入れなさい。」という方向である。神の国がこどもたちのような者たちのものだとイエスが言うのだから、これら二つの方向性で考えなければならない。こどもたちは周りの世界を、大人も含めて全体的に受け入れる存在である。こどもたちの全体的受容の在り方が、神の国を受け入れるということなのだとの勧めである。そして、そのような在り方をしているこどもたちを受け入れるということも、神の国を受け入れることなのだ。すべての人間は神の国に生かされているのだから。そして、すべての人間のうちに神の国は生きているのだから。従って、我々はこどものように生きることが求められているのである。それが自由ということである。

我々大人は不自由である。他者を縛り、自分を縛る。他者を排除し、自分が排除される。イエスが言うように、「自分の計る計りで計り返される」のである。排除する者は排除されている。排除されている者は排除する。受け入れる者は受け入れられている。受け入れられている者は受け入れる。これはどちらかではない。どちらもなのだ。それゆえに、受容とは全体的受容である。受け入れるという方向だけではなく、受け入れられているという方向も同時にあるのが全体的受容なのである。

この全体的受容は創造の初めからあった神の在り方である。神が世界を造られたとき、神は造られたものを受容しておられたし、神は造られたものに受容されていたのだ。しかし、人間が罪を犯したのち、人間は受容し給う神を排除するようになった。こうして、我々の罪の世界は神を排除した人間の都合の世界に堕してしまったのである。神が結び合わせた存在を排除するようになったのも、神を排除したが故である。それゆえに、我々は神の国に入っていない。神を受容していなければ神の国には入っていない。神の国があろうとも入っていない。それが我々人間、いや大人の問題である。「こどものように」とイエスが言うのは、エデンの園でこどものように生きていたアダムとエヴァを想起している言であろう。あの頃、我々はこどものような存在だったのだ。罪が入り込んできて、我々は大人になった。創造のはじめを忘れてしまった。神に全体的受容を受けていたことを忘れてしまった。そして分裂した人間となってしまったのである。そのような人間がエデンの園の在り方を取り戻すために、イエスは十字架を負われ、イエスと共に死ぬ洗礼を通して、我々は生まれたてのこどものように受け入れられたのだ。古い大人を脱ぎ捨て、こどものように神の国の全体的受容を生きて行こう。あなたは受け入れられ、受け入れる者として生きることができるのだ。

祈ります。

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