「天に書かれてしまっている名」

2015年10月18日(福音書記者ルカの日(100周年記念礼拝))

ルカによる福音書10章1節~20節

 

「主よ、悪霊たちもまた、わたしたちに服従する、あなたの名において。」と派遣された七十二人は喜ぶ。彼らは「わたしたちに服従する」という現象を喜んでいる。イエスご自身は言う。「わたしは見続けていた、サタンを、稲妻のように天から落ちるサタンを」と。イエスご自身はサタンの墜落を見ていたと言うのである。この言葉が、サタンの力が放逐されたことなのか。あるいは、放逐された地上でサタンが荒らしまわる予兆なのかは分からない。しかし、イエスには天から落ちるサタンが見えたのである。サタンが天においているべき場所を失い、地上に落ちた。サタンが地上に追いやられた。それでも、サタンという敵が持っている神的力すべてのうえにある権威が与えられているから、あなたがたに誰も害を加えられないのだとイエスは言う。それなのに、七十二人の弟子たちは大喜びするのである、「わたしたちに服従する」ということを。それは人間として当然である。

我々も信仰において力を与えられることを喜ぶ。信仰で力を得たと喜ぶ。得られるならば如何なる力でも喜ぶ。自分自身が持っていなかったものが与えられることを喜ぶ。それが人間である。他者が持ちえない力を得ることで、自分が何者かであると思えるからである。それが自分の生きる意味になると思える。誰かに頼られ、褒められる存在になることを喜ぶ。これが人間である。信仰においてもそのような力を得たいと願う。しかし、イエスが弟子たちに与えたのは「権威」である。権威は、エクスーシアというギリシア語であるが、外に存在するものである。権威を与えられたとは言っても外に存在するものだから、自分のものではない。神のものである。イエスの権威である。それゆえに、自分が偉くなることではない。自分に力があるのでもない。自分が何者かになるのでもない。権威という神の力に背中を押されて働くだけなのである。それゆえに、権威を与えられてもわたしは何者でもないのだ。これを勘違いするのが人間である。

それゆえに、イエスは彼らの告白に危険を感じたのだ。「悪霊たちもまた、わたしたちに服従する。」と彼らは喜んだのだから。弟子たちに服従しているわけではない。イエスの名に服従しているのだ。イエスの名という権威に服従しているのだ。それなのに、彼らは自分たちに悪霊たちが服従していると勘違いしている。これが行き着く先は、自分たちが悪霊たちに取って代わることである。そして、弟子たちの支配する世界、弟子たちが力を奮う世界を求めてしまうであろう。そうなってしまえば、たちまち彼らもサタンと同じになる。こうして、サタンの支配は彼らのうちに、地上に広がっていく。この危険をイエスは察知して、こう言うのである。「それでも、このことにおいて、あなたがたは喜ぶな、霊たちがあなたがたに服従することを。」と。

霊たちが服従する世界は、自分たちが思うようになる世界である。そのような世界を喜ぶのは、実はサタンの支配に陥ることである。我々の日常においても、ことが上手く運ぶと、自分の力だと思い上がるものである。自分に力があるから、こういうことができるのだと思える。そうして、我々は傲慢になり、自分の支配を広げてしまう。我々の歴史においても同じことが起こっている。上手くいく時代は、かえって危険な時代である。人間は、順風満帆な世界がいつまでも続くと思い込むのだ。いずれ廃れてしまう世界だということを忘れてしまう。永遠に続く良い世界を手に入れたと思い込む。自らの力に服従する世界だと誤解する。その力は誰の力なのか、誰の権威なのかを忘れ、自分が永遠の力を持っているかのように思い上がる。こうして、我々は自分が持っていると思い込んだ力に頼って、その力と共に滅びるのである。

それゆえに、イエスは言う。「しかし、あなたがたは喜びなさい、あなたがたの名が書き込まれてしまっていることを、天において。」と。これは「書く」という言葉の強調である。書かれてしまっているということがより強く言い表されている。それは、消しようのないほど「書かれてしまっている」ということである。すでに書かれてしまっているのであり、わたしが気がついたときには書かれてしまっていたのである。わたしが書いてほしいと願ったのではない。わたしが書き込んでもらえるほど良い働きをした報いだというわけでもない。わたしが良い人間だということでもない。ただ「書き込まれてしまっている」のである。「書かれてしまっている」という受動態が語っているのは、わたしの意志とは関わりなく、神の意志によって、天において書き込まれてしまっているということである。このようにイエスが言うのは、弟子たちが自分たちの力を喜んでいたからである。その力、権威を与え給うたお方が、あなたがたの名を書いてしまっているのだ、天において。それゆえに、あなたがたは地上に落ちたサタンから守られるのであり、害を受けることはないのだと。それは、あなたがたに与えられた権威にサタンが従うことである。サタンが神の権威に服従するのであって、その神はあなたがたの名を書いてしまっているお方であるとイエスは言うのである。すなわち、弟子たちの名が書かれてしまっている天においては、弟子たちは書いてしまっているお方の支配の下にあるのだ。だからこそ、悪霊たちが弟子たちに服従するように見える。実は、彼らの名を書いてしまっているお方に服従しているのに。

我々なごや希望教会が過ごした100年は、神が支配し、神が権威をもって導いた100年である。この100年の間、我々は自分たちの力で素晴らしい教会になったと思えるときもあった。我々の力で、教会が成長しているかのように思えるときもあった。我々の力で、多くの人が救われたと思えるときもあった。しかし、それらの働きは、我々の力ではなかった。神の力が働いたのであり、天に書かれてしまっている名を持つ人たちが救われたのだ。それでも、この100年の間に人間的に躓いた人たちもいた。この教会を離れても、別の教会に通っている人は神のうちに生きている。しかし、教会に行かず、与えられた恵みを見失っている人もいる。彼らも、天に書かれてしまっている名を持っているのではないのか。洗礼を受けたということはそういうことではないのか。牧師や信徒が彼らを躓かせたのだと批判する者もいる。確かに、そうであろう。確かにわたしが躓かせたのだ。確かにわたしがキリストを十字架に架けたのだ。我々は他者を躓かせるほどに罪深い。それゆえに、自分自身が躓くのでもある。自分の力で、人を導いたと思い上がり、自分を慕って人が来ると思う。こうして、神に従うことを伝えられず、人間的次元でつながろうとする人を広げる。これは「わたしたちに服従する」と喜ぶ七十二人の姿と同じである。この弟子たちに語るイエスの言は、我々に語られているのだ。「あなたがたの名が書き込まれてしまっていることを喜びなさい、天において。」と。

自らの名が天において、書かれてしまっていると信頼して生きること。神が書き込んでおられると信じること。書き込んでしまっている名を神が忘れることはないと信頼すること。ここにおいて、我々はこれから先も前進していく力を与えられる。我々罪人は、他者を躓かせるほどに罪深い。罪深いわたしが名を書き込まれてしまっているなどと思い描けない。それなのに、イエスは言うのだ。「あなたがたの名が書かれてしまっている、天において」と。書かれてしまっているのだ。我々の名が天にあるのだ。あなたは救われた者と記されている、神の手のひらに。これだけが我々の救い。すべてを失ったとしても、神が書いてしまっている名は失われない。すべての人から蔑まれたとしても、名は失われない。神の手のひらに刻まれてしまっている名は失われない。変わり得ない名として、刻まれている。十字架のキリストがご自身の血において書いてしまっているのだから。この信仰の中で、新しい日々を生きて行こう。新しい100年を生きて行こう。天に書かれてしまっている名があなたの救いの始まり、あなたの未来。わたしの希望である神に聞き従って、魂に命を得て、前進しよう。

祈ります。

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