「小さき者の十字架」

2015年10月25日(宗教改革主日)

マタイによる福音書5章1節~6節

 

「霊に貧しい人たちは幸い」とイエスは言う。霊と言う。心ではなく、霊。霊とは人間においても神においてもその思いを司る部分。神の意志は霊が持っている。人間の意志も霊が持っている。霊に貧しいとはどういうことなのか。貧しい霊なのか。いや、霊が貧しさを意志としているということである。貧しいことを意志している霊を持っている人は幸いとイエスは言うのである。貧しさを意志する。そんなことはあり得ない。誰もが富むことを意志する。金持ちになりたい。財産がたくさんあることを望む。たくさん持っていれば安心だと思う。貧しさを意志するなどということは欺瞞だと思う。良い恰好しているだけだと思う。そう人間は考える。誰もが貧しさは悪だと考える。誰もが貧しいことを憎む。誰もが貧しいことを避けたい。貧しい人を馬鹿にするのも我々人間である。自分で富んだわけではないのに、自分の力で頑張ったからこんな裕福な生活ができるのだと自負する。自分の努力がこの生活を支えていると自負する。貧しい人は頑張っていない怠惰な人間なのだと批判する。そうして、自分が富んでいることを批判されないようにと自己弁護する。

貧しさは意志するものなのか。神の意志なのか。いや、貧しさにあって、神の意志としてその生を生きているならば究極的に天の国に生きているのである。富んでいて、これは神の意志だと言うのは容易い。貧しくて、これは神の意志だと誰が思うだろうか。誰が受け入れるだろうか。しかし、霊に貧しい人は受け入れている。霊に貧しくなっている人は、貧しさを意志している。それが神の必然であると意志している。それが神の意志だと受け入れている。こうして、霊に貧しい人は神の意志を生きている。それゆえに、彼らは天の国に生きている。それは小さくされている者たちである。

我々は大きくなりたい。小さくなりたいとは誰も思わない。ただ、小さくされる人はいる。悲しむ人、柔和な人、義に飢え渇く人たちはそうである。彼らは蔑まれ、排除され、小さくされている。そうならざるを得ないようにされて、それも神の意志と受け入れ生きている。外面的には貧しくとも、神の意志と受け入れ生きているならば、霊に貧しく富んでいる。貧しさを意志して富んでいる。貧しさはわたしがわたしであることと富んでいる。その人はわたしを見出している。神の意志のうちで自分を生きているがゆえに、天の国に生きている。

霊に貧しいとはどういうことなのか。自らの霊に貧しく、神の霊に豊かであることである。何故なら、わたしの霊は人間的霊であり、罪の意志しか持ちえないのだ。マルティン・ルターが言う通り、罪の奴隷的意志しか持ちえないのが人間なのである。貧しさを生きることができないのが人間である。貧しさを神の意志として生きることができないのが人間である。そのような人間が自らの霊に貧しくなっているならば、神の霊が注入されているのだ。わたしのうちに神の霊が充満し、わたしの人間的な霊は貧しくなっている。それが霊に貧しい人なのである。

それはまた、神の霊に満たされたいと願っている霊でもある。神の言に満たされたいと願っている霊でもある。それゆえに、神の意志である神の言に飢え渇いている。神の義に飢え渇いている。義に飢え渇いているがゆえに、マルティン・ルターは福音を見出した。聖書の言葉にこだわって、ギリシア語やヘブライ語で聖書を読み、見出した、福音を。神の義に飢え渇いていたマルティン・ルターは、神の義を憎んでいた。神が義しいということは分かる。しかし、神の義がわたしを裁くと思えた。それゆえに、わたしは義しく生きなければと懸命になった。その果てに、ルターは絶望に陥る。自分自身に絶望したのだ。そのとき、神の言が光り輝いた。まったく逆方向から輝いて来た。神の義がわたしを救い給う義であることが分かった。神がわたしを救い給うことが神の義であることが分かったのだ。ルターが憎んでいた神の義が愛おしいものに変わった。キリストの十字架によって変わった。キリストが苦しみ給うた十字架によって、わたしは神の義に包まれていると受け取ることができた。こうして、ルターは救いを受けたのである。

それまでルターは自分の義を求めていた。しかし、キリストの十字架によって、神の義を生きることができるようにされた。自分の義は律法主義的義であったと自分の義を放棄した。放棄したそのとき、彼は霊に貧しい者となったのである。そして、神の義、神の意志が満たされた。満たされた神の義が彼を包んだ。ルターが見出したのは、神の義に包まれたわたしだったのだ。功績も必要ない。報いも必要ない。わたしの義も必要ない。ただキリストの義だけがわたしを救い給う。ルターが至った神の義の理解はルターの信仰を造り変えた。ルターが取り組んでいた努力が虚しいことを教えた。ルターが精進した苦行が虚しいことを教えた。ルターが苦しんだ神の義が甘美なものであることが示された。マルティン・ルターにとって神の義は愛おしい義となった。ルターはこれを塔の体験として語っている。塔にいたときにこの体験をしたのだ。

孤高の塔のうちで体験した神の義の芳しさ、愛おしさ。ルターは霊に貧しくなって、天の国に生きている自分自身を体験したのである。霊に貧しい人間は神の霊に満たされている。神の意志を知る霊に満たされている。それゆえに、ルターは神の意志を理解した。理解した神の意志が彼を解放した、罪の奴隷的意志から。こうして、ルターは自由意志を生きることになったが、それはキリストが彼のうちで生きることだったのだ。それゆえに、ルターは自らの信仰を「注入された信仰」と呼んだのだ。

我々は注入された信仰を生きる。キリストを通してわたしのうちに注入された信仰は、神の信仰、キリストの信仰である。キリストの信仰がわたしを信じる者として新たに造る。キリストの信仰のうちで、わたしは信じる者とされる。キリストの信仰の力がわたしを造り変える。わたしはキリストのものとして生き始める。我々キリスト者はキリストの信仰を生きる。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで神に従順であったキリストの信仰を生きる。キリストによってわたしは神への従順に生きる。それこそが神の義であり、わたしを包むキリストの義である。信仰義認とは、キリストの義を見て我々の罪を見ないでいてくださる神の義の結果なのである。我々の義の結果は傲慢に陥る。神の義に包まれる結果は謙虚さが宿る。キリストが自らを虚しくし、自らを貧しくされたお姿が我々のうちに宿る。こうして、我々のうちにキリストが生き、キリストが生きているので、わたしは生きることができる。神の前に隠れることなく、ありのままの罪人として。

我々は罪人である。この事実を受け止め、罪人を救い給う十字架を仰ぐとき、我々はルターが言った「義人にして罪人」を生きるのである。これが宗教改革的信仰である。あなたが自らの霊が貧しいのだということを知るとき、あなたはキリストにおいて富む者とされる。キリストの富みに満たされる。キリストがあなたのうちに生き給う。キリストがあなたを富ませ給う。神の霊に富ませ給う。こうして、我々は神の霊に満たされ、神の意志を喜ぶ者とされるのだ。神が命じ給うところを喜びをもって生きる者とされる。神が戒め給うことを愛する者とされる。神が義しいお方であることを喜ぶ者とされる。このようになる者としてくださるのは神である。神が造り給うた神の義、キリストの十字架の力である。「十字架の言は・・・神の力」とパウロが言う通り。

我々には神の言がある。十字架の言がある。この言を我々が口で噛み、喉で受けるようにとキリストはご自身の体と血を与え給う。キリストの体と血をいただき、わたしの体で受け取ろう。あなたのうちに入り来るキリストご自身を受け取ろう。あなたはキリストの者として生きることができるのだ。ただ受け取るだけで。

あなたの霊が貧しくなり、キリストの霊、神の霊があなたのうちに満たされますように。虐げられても、神の意志はあなたを生かす。あなたが神の意志の中で命を得るようにと。「聞き従って、魂に命を得よ」と語り給う神に従って、共に生きて行こう。

祈ります。

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