「生きざるを得ず」

2015年11月1日(全聖徒主日)

マタイによる福音書5章1節~12節

 

「あなたがたは幸いである。彼らがあなたがたを非難するとき、そして彼らが迫害するとき、そしてすべての悪しきことを彼らが言うとき、あなたがたに対して、わたしのゆえに。」とイエスは言う。3節から10節までは三人称複数で語られていたのに、11節と12節は二人称複数である。10節には、迫害という言葉が出てくるが、三人称であった宣言が「あなたがた」という二人称に変更になったのは何故なのか。一般論ではなく、目の前にいる現実に迫害を受ける存在への励ましであろうか。イエスのゆえに被る非難、迫害、悪しき言葉は、喜ぶべきことだと言う。三人称のときは、「幸いである」という宣言だけだったが、ここでは「喜べ」とも言われているのだ。従って、非難、迫害、悪しき言葉は喜ぶべきことなのである、イエスゆえに。さらに「天におけるあなたがたの報い」とは一体何なのだろうか。預言者たちと同じ報いということであろうか。彼らは何を得たというのか。ただ社会から非難され、迫害され、排除されただけではないのか。確かに、地上においては排除されただけ、嫌われただけ、しかし、天においては違ったというのだろうか。苦しくとも我慢していれば、天で報いがあるということならば、結局この地上では虐げられ、苦しめられるだけで、何も良いことはない。先の報いを望み見て、今耐えなさいということなのか。本当に天があるならば、それが確証されているならば、我慢もできるであろう。しかし、それは確証されるようなものではないのだ。それゆえに、誰もが地上において他人より上に、より多く、より大きな報いを求めて躍起になっているのである。地上において、手にすることができるものを求めて生きるのである。死んでから報いがあると言われても、それが何になるのか。死んでからの生があるのかどうかも分からないならば、誰も我慢などしない。それが現実である。それがこの世である。そのような世界を作り出しているのは、自らが手にすることができるものだけを信頼しようとする現実主義である。「死んで花実が咲くものか」と言い、「この世で楽しめ」と言う。死んでからのことはそのとき考えれば良い。死んだ先のことを考えて、この世で我慢して生きるなど馬鹿げていると思う。それが我々の世界である。神の意志によって造られたにも関わらず、自分の目の前のことだけに汲々とする世界である。

しかし、この世界にあっても、誰もが上を目指しながら、誰もが上になれるわけではない。階級闘争の世界がこの世である。強い者が上手く生きることができる。この世の知恵に長けている者がよりよく生きることができる。それがこの地上の世界である。誰もが自分のために生きている世界である。自分のために生きている世界は、自分が無くなれば終わりである。死後の世界や天上の世界など信じてもいないのだから、そうなのである。行ってみなければ分からないのだから、信じるしかないが、もしなかったならば、地上で我慢しても馬鹿馬鹿しいだけではないか。それなら、地上で目に見える報いを受けるように生きた方が良いに決まっている。自分のために生きる世界はどこまでもそうなってしまうのである。

ところが、イエスが言うのは「わたしのゆえに」である。イエスのゆえに、非難され、迫害され、悪しき言葉を言われることである。自分のために生きることではない。イエスに励まされて生きることであり、イエスに従って生きることである。そのとき、非難、迫害、悪口を受けたとしても天における報いがあるのだと言うのである。それは、我慢するというよりも、天に目を向けるということである。地上に目を向けている限り、我々は自分のために生きざるを得ない。しかし、イエスに目を向けている限り、イエスゆえに生きようとする。いや、イエスに押し出されて、イエスに従おうとする。そのとき、我々は非難、迫害、悪口さえもただ受けるであろう。イエスに従うことだけに目を向けているからである。それらの悪しきことに対抗せず、ただイエスに従うのである。そのとき、我々の目は天に向かっている。天における報いを見ている。それは「あなたはわたしの意志に従ったのだ」という神の受容である。神に受け入れられることこそが我々の報いである。それが永遠の命と言われ、神の国と言われる表象である。地上に捕らわれている者は望み見てもいないのだから、地上の生で終わるように生きている。神の意志に従わないのだから、死んでも従わない。そして、神の御手を受け取らない。ただそれだけである。

では、イエスが言うように、喜べば良いのか。そうすれば、天において報いがあるのか。そうではない。地上に心を奪われている者は如何にしても天に目を向けることはない。喜べば天に報いがあると考えて、喜ぼうとしても続くものではない。結局信じていないからである。石地に落ちた種と同じである。マタイによる福音書13章21節で、イエスはこう言っている。「石だらけのところに蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」と。結局、続かないということである。それゆえに、天における報いは受けるべき者が受けるのである。そのような人は、非難、迫害、悪口を受けてもなお、そのように生きざるを得ないと生きる人である。「イエスのゆえに」そのように生きざるを得ない人である。その人の目は、イエスの十字架に注がれている。イエスがあの十字架の上で死んだことも、そのように生きざるを得ず生きたことである。イエスが神に従わざるを得ず従った結果が十字架である。イエスでさえも、十字架を避けたいと思ったのだ。しかし、神の意志がそこになると信頼し、引き受けた。神に従うゆえに、十字架を引き受けざるを得なかった。そのイエスゆえに、苦難を生きる者は、イエスと同じように神に受け入れられるであろう。

そのように生きざるを得ない者は、もし天国がなかったら、地上で我慢しても馬鹿馬鹿しいではないかとは考えない。ただ、神の意志に従おうとする。イエスゆえに、従おうとする。イエスゆえに、すべてを引き受けようとする。ただそれだけがその人の魂を平安にするからである。その人の魂が喜びに満たされるからである。ただ、イエスに従うことだけがその人の喜びとなるからである。

イエスご自身が非難され、迫害され、悪しき言葉を言われたのだ。預言者たちも神の意志を語ったが、同じように迫害された。それでも語らざるを得なかった預言者たちは、地上に平安はなかった。しかし、語るべき言をいただいているがゆえに、語らざるを得なかった。非難されても生きざるを得なかった。これがイエスゆえに生きることであり、神の意志ゆえに死ぬことである。

全聖徒の日は11月1日でちょうど今年は日曜日であるが、従来は近い主日にその日を覚えて礼拝を守っている。聖徒とは神のものとして生きた人たちである。キリストに従って生きた人たちである。我々の教会だけではなく、2000年に及ぶキリスト教会の歴史の中でキリストに従った人たちである。さらに、今地上にあってイエスのゆえに神の意志に従わざるを得ないと生きている人たちである。この聖徒たちが共に祈るのである、お互いがイエスのゆえに生きることができますようにと。そして、天における報いを共に受けることができますようにと。

天に召されることは終わりではない。神に受け入れられることである。神に迎えられることである。神があなたを天の国に生かし給うことである。イエスゆえに生きたあなたを、受け入れ給うことである。我々の教会においても、イエスゆえに生きた一人ひとりが神に受け入れられていることを覚えて祈る。祈る者もイエスゆえに生きざるを得ないがゆえに、祈る。この祈りのつながりが我々を永遠へと導いていくのである。

今日、共に与るイエスの体と血は、あなたを天における報いに向けて生かし給う。イエスのゆえに、生きざるを得ないあなたを励まし、強めてくださる。感謝して受け取ろう、イエスゆえに生きざるを得なかった一人ひとりを覚えて。

祈ります。

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