「使い切る」

2015年11月8日(聖霊降臨後第24主日)

マルコによる福音書12章28節~34節

 

「聞け、イスラエルよ。わたしたちの神なる主は一なる主である。そして、あなたの神なる主を愛しなさい、あなたの心の全体から、あなたの魂の全体から、あなたの思考力の全体から、あなたの力の全体から。」とイエスは申命記6章4節、5節を引用して言う。申命記のこの言葉は、シェマー「聞け」という言葉で始まる。それは聞き従うことを求める神の言である。シェマーとは単に聴覚的に聞くということではなく、心の全体、魂の全体、思考力の全体、力の全体で聞くことであり、わたしという存在全体が聞くことである。従って、聞いた言が心全体に満ち、魂全体を支配し、思考力全体を制御し、力全体を用いるということである。これはまた、マルティン・ルターが言う「心の根」で聞くことであり、聞いた言がわたしの外に現れるように聞くことである。

しかし、「心の全体から」と言われている。「~から」という起源を表す前置詞エクスが使われている。起源であるから、そこから始まるすべてを表している。心の全体から始まる神を愛すること。魂の全体から始まる神を愛すること。思考力の全体から始まる神を愛すること。力の全体から始まる神を愛すること。日本語訳では「尽して」と訳すのが通例となっているが、それは「全体を使い切って」という意味になる。心を使い切ることから始まって、神を愛するのだということである。心を使い切るから、心は何もなくなる。魂も何もなくなる。思考力も何もなくなる。力も何もなくなる。そこから始めて、神を愛するのだとすれば、使い切って何もなくなって、神を愛するのである。わたしには何もなくなるのだから、わたしが愛する愛ではない。わたしの何も残らない状態になって、神を愛するのである。使い切って、すっからかんになって、神を愛するのである。それでは、擦り切れた使い物にならないもので神を愛するのだろうか。いや、わたしの人間的なものがすべて使い尽されたところで、初めて神を愛することが可能となるということである。

わたしの心、わたしの魂、わたしの思考力、わたしの力が使い尽され、何もなくなったわたしが神を愛するところに導かれる。そのとき、わたしは何もない者として神を愛する。ただ、神がわたしを満たし給うままに愛する。何もないわたしが愛するということは、神に満たされて神を愛するということである。そのとき、わたしはシェマーである聞くことを生きることになるのである。

「聞く」ということは、わたしが受けることである。わたしから発することではない。わたしは神なる主の言、主の意志を受けて、主を愛する。人間は「聞く」シェマーという受けることがなければ、神を愛することはできないのである。そして、隣人を愛することもできないのである。何者でもないわたしであるところに至って、神を愛し、隣人を愛することに至るのである。それが、真実に自分を愛することでもある。

我々が自分を愛すると考えるとき、愛せる自分を愛するものである。愛せない自分、情けない自分は愛せないと考えるものである。意識していなくとも、我々は愛せると思える自分しか愛していない。人に見せられない自分は愛せないのである。人に評価される自分は愛せると思える。人から批判され、除け者にされる自分を愛せるとは思わない。批判されず評価され、除け者にされず受け入れられる自分を愛するのである。劣等感を起こさせる自分は愛せない。そのとき、我々は自分を全体として愛してはいない。自分が評価される部分は愛しても、評価されない部分は愛せない。人に見せることができるわたしは愛せるが、人に見せられないわたしは愛せない。部分的に自分を愛しているということは、自分を愛していないということである。自分のすべてを愛していないとき、わたしは自分を自分で除け者にしているのである。評価されないわたしも含めて、除け者にされるわたしも含めて、わたしを全体として愛することが自分を愛することである。このように自分を愛することから、隣人を愛することに至るのである。わたしの全体を愛する人は、隣人の全体を愛する。自分自身のように隣人を愛する。隣人の評価されないところも、除け者にされるところも含めて、隣人を愛する。そのように生きるとき、わたしは一なる主のうちに生きているのである。

「わたしたちの神なる主は一なる主である」。この大前提がすべてを包含するのである。神なる主が一であるということは、一の中にこの世界全体が含まれているということである。わたしも隣人も含まれているということである。一にすべてが含まれている。ここから始めるならば、如何なることも神なる主のうちに含まれていることとして愛することが可能となる。「こんなことが起こるとは神はいないのではないか。」と考えるとき、「こんなこと」を神が起こすはずはないと考えている。しかし、この世の現実の中に起こることは一なる主のうちに含まれている。それゆえに、わたしが「こんなこと」と思い、削除したいと考えるようなことも含めて全体としての神の世界なのである。この一なる世界に含まれていないものは何もない。それゆえに、神を愛することは、わたしを愛することであり、隣人を愛することである。

わたしの心、わたしの魂、わたしの思考力、私の力を使い切ったとき、わたしの前に現れるのは一なる主の世界である。わたしのものが何もなくなったとき、一なる主の世界が現前していることが見える。そのとき、我々は何もなくともすべてを持っている。使い切ってもすべてがある。いや、使い切るがゆえに、すべてがあるところに導かれる。こうして、我々は我々の世界ではなく、一なる主の世界を生きるのである。そのとき、自分も隣人も一なる主のものとして生かされていることを知るであろう。一なる主がすべてを造り給うたのだから。

使い切った者は、何も評価しない。すべて神のものであることを知っているからである。使い切ったとき、我々は何もなくなるのではない。すべてが神のうちから生まれることを知るからである。使い切ったとき、我々はすべてを持っている。すべてを神のものとして持っている。このとき、我々は真に神を愛するのである。真に自分を愛するのである。真に隣人を愛するのである。

キリストも十字架の上で、すべてを使い切ったのだ。すべてを使い切って、死んだ。そして、すべてを持って生きている。キリストが十字架で示してくださったのは、使い切ってこそ真実に人間として生きるということである。使い切ってこそ人間が人間になる。使い切ってこそ人間が神の力に満たされる。我々は、使い切ることを恐れる。何もなくなってしまうのではないかと。死んでしまうのではないかと。キリストを見よ。使い切ってしまったが、見よ、生きている。使い切ってしまったが、すべてを支配している。使い切ってしまったが、すべてを包んでいる。このキリストに従うとき、我々は可能なる者とされる。如何なるときも生かされる。如何なることも引き受けて生きる。如何なるものもわたしを妨げることはない。すべてが一なる主のうちに善きものとして働くからである。我々の前に起こってくることが妨げるかのように思えてもなお、我々に益となる。使徒パウロがローマの信徒への手紙8章28節で言う如く、「神を愛している者たちに、すべてのことが共に働く、善きことへと、計画に従って召された者たちに生成して。」ということである。

すべては、神を愛することから始まる。わたしのすべてを使い切って、神を愛することから始まる。そこにおいて、我々が神の意志に従う者として造られるのである。神は、我々の心に愛を満たし、我々の魂を愛する者として造り、我々の思考力を愛することに向け、我々の力を愛するために現させ給う。あなたが使い切ってもなお、神のうちにあるすべてがあなたを満たすのだ。恐れることなく、使い切って生きよう。すべては神が与え給うたものなのだから。わたしのものなど何一つないのだから。あなたは神のもの、神の善きもので満たされている。あなたは、あなたを愛し、あなたのために十字架を引き受け給うた主のものなのだから。

祈ります。

 

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